「生徒たちと写る男性は柔道の先生だったお父さん」。沖縄戦で米第10陸軍が首里(現那覇市)の地下壕でネガフィルムを見つけ、現像して持ち帰った写真に県立第三中学校(現名護高校)の教員や生徒が写っていたとの本紙報道を受け、集合写真に写る男性が那覇市出身の与儀達英さんとの情報が、親族から寄せられた。与儀さんは太平洋戦争で徴兵され、南洋のブーゲンビル島で1944年3月に33歳で戦死していた。娘の香代子さん(77)は、柔道家でスポーツ万能だった与儀さんのことを「少しでも知ってほしい」と望んでいる。
写真は、沖縄戦で米第10陸軍が首里の地下壕で見つけたネガフィルムをプリントしたもの。米ユタ州の男性が父親の遺品から見つけてブログに公開した。父親は米第10陸軍の写真解析部隊を率いていたが、首里のどこの壕で見つかり、なぜ三中の写真が首里の壕にあったのかなど、詳しいことは分かっていない。
一連の写真の中に、柔道着の生徒らと一緒に同校の光本光治校長、教頭で戦後は初代行政主席を務めた比嘉秀平氏と並んで、柔道の教員を務めていた与儀さんの姿がある。
香代子さんと与儀さんのおい・達憲さん(80)によると、与儀さんは県立第一中学校に進学し、水泳や野球のピッチャーで活躍、柔道にも取り組んだ。東京の拓殖大に進学し、柔道部では主将も務めた。卒業後は三中で柔道の教員となり、柔道の創始者嘉納治五郎が沖縄に来た際には直伝の初段を授かり、空手家の宮城嗣吉に決闘を申し込まれたこともあったという。
ブーゲンビル島で与儀さんが戦死した時、香代子さんは2歳。2歳上の兄と母親と共に台湾に疎開していた。母親は夫の戦死の報を聞き、絶望し、香代子さんを背負い「もう生きていても仕方ない。死のうね」と線路の上を歩いた。息子に「お母さん、死なないで」と必死に手を引っ張られ、思いとどまったという。
戦後、母親はそのことを香代子さんに語って聞かせ、香代子さんも今、孫たちに語る。三中の写真に香代子さんは「すぐに父だと分かった。もし生きていれば戦後も活躍していたと思う。無念に亡くなったけれど、生前の父を少しでも知ってもらえれば、父も浮かばれると思う」と語った。
(中村万里子)