“食治料理家”として、「食」で多くの人を笑顔にしている大河内さん。その原点となったのは、元夫のあのアスリートのために、食事を作り始めたことにあるという――。
「新庄さんと初めて会ったときは、年下だと思ったのですが、実際は同級生だと聞き、驚きました」
そう話すのは、モデル・タレントの大河内志保さん(50)。志保さんは’93年から、北海道日本ハムファイターズの監督に就任した新庄剛志さん(49)と交際し、’00年に結婚。’07年に離婚するまでの約15年間にわたり、野球選手として活躍し続けた新庄さんを陰ながら支えてきた。
現在、“食治料理家”として、食と美や健康の関係を探究し続ける彼女の原点は、新庄さんのメジャー挑戦も支えたこの時代にあったという。
2人が出会ったのは’92年11月に収録されたテレビ番組の対談企画だった。すでに新庄さんは阪神タイガースで活躍し、「虎のプリンス」の愛称で大人気。しかし志保さんはそんな人気ぶりも、初対面のときは全く知らなかったという。
最初は恋愛感情がなく、友達関係だったが、当時20歳の新庄さんが純粋に一生懸命アプローチしてくる姿に、次第に心を動かされ、交際に至った。付き合い始めると、新庄さんのさりげない優しさを感じることが多かったそう。
「私の誕生日にサプライズで高級ホテルのスイートルームを予約してくれたんです。彼はそのホテルにヴェルサーチのスーツで行くつもりだったみたいなのですが、何も知らない私がカジュアルな格好で彼の家に行ったものだから……。すでにつるしていたスーツ一式を、私にわからないようにそっとしまって。私の服に合わせてジーパンとセーターを選んでくれて。すごく優しいなと思いました」
交際して1年がたったころ、志保さんは芸能界を引退して新庄さんを支えていくことを決意する。結婚という選択肢はあえてとらなかった。
「野球選手も人気商売。ファンの方たちからしたら、女性の影がないほうがいいわけですから。私の思いは新庄さんが一人前になるまでは妻としてじゃなく、人として支えたかったんです。だから感覚的には影武者ですね」
ここから二人三脚の日々が本格的にスタートする。
「芸能界引退後、試合の観戦などを通じて、阪神タイガースがいかに熱烈なファンの方々に支えられているかも理解しました。プロ野球選手の食事を管理するには、やはり私もプロの“パートナー”でないとサポートできないと思ったので、食の勉強を始め、栄養学付属学校で調理師免許を取ったんです」
先日の監督就任会見では「監督って言わないで。『ビッグボス!』で」と、サービス精神たっぷりのコメントでファンを沸かせた新庄さんだが、若手選手時代は人前で話すのが苦手だったという。
「試合後のヒーローインタビューで、もごもごしゃべっていたので、帰ってきたときに『なんでふだんどおりにしゃべらないの?』って聞いたんです。そしたら『博多弁が出るのが恥ずかしいから』って(笑)。すごいシャイでした。テレビ番組の収録前日なんかは、何をしゃべったらいいかで、悩んで眠れなくて。寝たと思ったら、起きてきて『明日どうしよう』って、そんな繰り返しでしたね」
志保さんの支えもあって、新庄さんは野球選手として大成していく。阪神の期待のホープから、阪神の顔へ。そんな順調な野球生活の転機は’00年にやってくる。
新庄さんは米国・メジャーリーグの「ニューヨーク・メッツ」への移籍を同年12月11日に発表。そして同月27日に新庄さんと志保さんはついに入籍した。2人の華々しい第2章が始まったように思えたのだが、実際はそうではなかったと志保さんは言う。
「当時の年俸はメジャー最低保障額の2,200万円。しかも、前年度の税金を納めないといけないから、お金が全然なかったんです。本当は新庄さんの身の回りの世話をするスタッフを雇いたかったんですけど、新庄さん以上の給料を米国のスタッフが請求してくるんですよ。そんなお金は払えないので、全部私が1人でやることに。向こうで住む家も、球団に頼むと高い物件しか紹介してくれないので、立地がよくて安いところを自分で歩いて探しました」
新庄さんはメジャーリーグの世界に溶け込むために日々努力していたそう。
「ああ見えて結構真面目。最初のキャンプ前に通訳さんから教えてもらった英語をメモ帳に書いていましたね。その英語で選手とコミュニケーションが取れるように一生懸命覚えていましたから。それまではメモ帳どころか文字を書くところを見たこともないぐらいの人だったんです」
キャンプが始まってから、志保さんは一時帰国。しかし、新庄さんから留守番電話に1本のメッセージが。
「『志保、俺、ダメかもしれん』と、一言入っていて。人生ではじめて彼の弱音を聞いたので『どれだけつらい思いしてるんだ』と思ったら、うわぁーって涙があふれてきました。そのときはレギュラー争いがで、開幕一軍も厳しそうだったんす。そんな彼の弱音を聞いたのは、そのときが最初で最後でした」
開幕一軍入りは果たしたものの、食事の違いやマッサージをしてくれるトレーナーがいなかったこともあり、ほどなくして新庄さんは故障してしまう。志保さんはすぐにスーツケースに日本食を詰め、旧知のトレーナーを連れて渡米した。
「遠征先の食事はパンやソーセージばかり。それでは力が出ないんですよ。やはり日本人は『ごはん』ですね。遠征などにも同行して、炊飯器でごはんを炊いていました。みそ、瓶詰めの鮭フレーク、甘辛く炊いたツナ、梅干し、のりをいつも用意して。ホテルの洗面所で、彼を起こさないようにライトもつけずに朝方の薄暗い中、おにぎりを握って、お弁当箱に決まって7個詰めて持たせていました」
有名な専門家と契約して、アスリートの食の管理法を勉強したのもこのころだ。こんな献身的なサポートもあり、新庄さんの3年間のメジャーリーグ生活は充実したものになった。日本人で初めてワールドシリーズに出場し、初安打も記録した。
その後は日本球界に戻り、日本ハムファイターズに入団。「新庄劇場」と称されるパフォーマンスとプレーで日本中を沸かせることになる。新庄さんは宣言したとおり、チームを日本一に導き、’06年に引退した。
「チームの盛り上がりとともにテレビ出演が増え、彼は北海道と東京を行き来する生活に。やがて彼と私の時間は少なくなり、すれ違いも増えてきました。たぶんそれまでは、お互いが必要としていたんですけど、これから先は別々に成長していくタイミングが来たのかなと思いました」
’07年12月28日に離婚を発表する。15年間、一人の人を支えてきたので、「これからは多くの人に喜んでもらえるような人になりたい」と思ったという。
トップアスリートの「食」を支えた15年の経験を活かし、現在は“食治料理家”として、多くの人の健康と美を実現するための手助けをしている大河内さん。’20年には、これまでの半生を綴った『人を輝かせる覚悟「裏方」だけが知る、もう1つのストーリー』(光文社)を出版した。
別々の道に進んだ元夫婦は、それぞれ夢に向かって邁進している。
(取材・文:インタビューマン山下)