渋沢栄一の孫でエッセイストとして活躍する鮫島純子さん(99)。渋沢栄一の実像を知る貴重な生き証人でもある鮫島さんは、渋沢の三男で実業家渋沢正雄氏の次女である。近年は自身の心の成長記録として著書を出し、近著『なにがあっても、ありがとう』(あさ出版)『97歳、幸せな超ポジティブ生活』(三笠書房)はいまやベストセラーに。
そんな鮫島さんに、99歳まで心身ともに健康に心穏やかに生きてきた秘訣を聞くと、戦時下の経験と共に、「感謝の心を忘れないこと」という返答がーー。
1922年、鮫島さんは、渋沢栄一も晩年まで過ごした東京都北区飛鳥山の邸宅で誕生。
女子学習院高等科を卒業と同時に、岩倉具視の曽孫で海軍文官の鮫島員重氏と20歳で結婚した。
「ネイビーブルーの凛々しい軍服姿のお見合い写真を見て、一目で好感を持ちました。太平洋戦争の直前ですから不穏な情勢のなか、お見合いをする場所を確保するのにも一苦労のようでした。お見合いは、お互い母親が華族女学校同級でしたから違和感なく、伯父たちももともと知り合いでしたから、二人そっちのけで話が盛り上がっていました」
食糧事情制限のために披露宴は3回行われたという。
まず両家の親族による式を帝国ホテルで。翌週は恩師・学友たちを招いて華族会館で。さらに3度目は目黒雅叙園で使用人や、植木屋さんなど結婚生活を営むにあたり世話になる方々を招いて行われたというが、その披露宴の当日、42年4月18日は奇しくも日本本土に先制攻撃がなされたドゥーリットル空襲の日。
鮫島さんは当日をこう振り返る。
「ドゥーリットルというアメリカの中佐の名に由来する空襲があったのです。まさに宴たけなわでしたが、新郎は横須賀鎮守府主計長でしたから軍服のまま横須賀へ飛び出して行きました。残された私は雅叙園の案内係の方に促されて防空壕へ。文金高島田と打掛姿のままで避難しました」
こうして波乱の幕開けのようであったが、夫の員重氏は「今日も楽しかったね、ご苦労様」など、何かにつけて労いの一言を忘れない温厚な性格であったため、結婚生活は穏やかに過ぎていたという。
「その後夫は本職である航空機製作所に復職したのですが。夫の出張中の名古屋で、空襲のなか焼夷弾の火を何発も消すなどの大奮闘もしました。あのころを思うといまこうしていられること自体ありがたいと思います」
という鮫島さんは常に感謝の心で生きてきた。これこそが健やかのベースにある。
現在、数多のエッセイ作品などを通して健やかに過ごすことについて説いている鮫島さん。いまに至るきっかけは3男が幼稚園に入園した27歳のころに遡る、と鮫島さんはいう。
「戦中戦後子供達の健やかな成長のみに心を配ってきましたが、自分の時間ができて、振り返ってみると、世間知らずの自分、また子供達を理想的な型にはめようとしている自分の子育てを反省。親として人として、いまよりもマシになるために自分を磨くべきではないか、と思いました」
鮫島さんの精神修養の旅がここから始まった。
※インタビュー(3)へ続く
(取材・文:本荘その子/撮影:菊池一郎)