住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、毎週見ていた歌番組の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。
「今でも『THE夜もヒッパレ(’95~’02年・日本テレビ系)を見てました!』と声をかけられることがあるんです。私にとって、顔と名前、そして歌声を知ってもらえた貴重な番組でした。毎回、出番まではすごく緊張するのですが、それが終わると人気歌手やレジェンド級の歌手の生歌を聴けるので、ものすごく贅沢! 勉強にもなりました」
こう振り返る早坂好恵さん(47)は、幼いころから歌手に憧れていたという。
「父が琉球舞踊の家元だったので、自宅に道場があり、お弟子さんが頻繁に出入りするような環境でした。物心ついたときには稽古を始め、初舞台は3歳のとき。記憶はないのですが、家族によると『まったく物おじせずに、堂々とやっていた』ようです」
早坂さんは琉球舞踊だけでなく歌も大好きだった。
「クラスメートの多くはアイドルのファンでしたが、私は小学校低学年のころから歌唱力重視。もんたよしのりさんや髙橋真梨子さんの曲を聴いたり、歌ったりしていました。鈴木雅之さんも40年来のファン」
小4のときには、沖縄で募集していた子どもミュージカルに挑戦した。
「琉球舞踊とともにやっていた組踊りには、歌舞伎のようなセリフがあったので、発声や感情の出し方が身についていたのかも。ミュージカル出演をきっかけに、アクターズスクールの社長にスカウトされたんです」
沖縄アクターズスクールといえば、安室奈美恵やMAX、SPEEDを輩出したことで知られる。
「でも、当時はスクールというよりも芸能事務所に近い感じ。大好きな歌のレッスンはできず、CMやテレビの仕事をすることのほうが多かったです」
小6から中学生にかけて出演した地元の情報番組『沖縄クラブハートキャッチTV』(RBC)では、ミニドラマやグルメレポートとともに、当時のヒット曲を歌う機会に恵まれた。
「浅香唯さんの『C-Girl』(’88年)や立花理佐さんの『キミはどんとくらい』(’87年)を歌ったりしました。そこに秋元康さんがスタッフとして参加していて、レコード会社を紹介してもらうことに」
1年半の間、週末ごとに上京して関係各所に挨拶回りを続け、中2で東京での生活を始めた。
翌年に『絶対!Part2』(’90年)で念願の歌手デビュー、まもなく『笑っていいとも!』(’82~’14年・フジテレビ系)のレギュラーも決まるなど、順調な滑り出しだったがーー。
「当時は歌番組がどんどん減っていったので、テレビで歌う機会はごくわずか。ただ、新曲のキャンペーンとして、全国の夏祭りやショッピングモールで歌わせてもらいました。多分、こうした地方営業は私の世代が最後かも」
夏休みの40日間に36カ所回ったこともあった。
「私はとにかく晴れ女。台風が来て“明日は休めるかも”と期待しても、次の日はしっかり晴れるんです(笑)。毎日移動ばかりだから、今、自分がどこにいるのかわからなくなるほどでした」