「あの年の8月12日から、判決が出た今日まで37年間というもの、日本航空からただの一度も事故原因を説明されたことはありません」
1985年8月12日に発生した日航123便墜落事故で最愛の夫・雅男さん(享年45)を失った吉備素子さん(80)が、声を震わせて言う。
群馬県上野村の御巣鷹の尾根に同日18時56分に墜落した羽田発大阪行き(ボーイング747)には乗員・乗客524人が搭乗していたが、生存者はわずか4人(すべて女性)。
520人もの尊い命が犠牲となった単独機世界最大の大惨事にもかかわらず、発生から36年ものあいだ、日本では裁判が一度も行われてこなかった。
そんななか、吉備さんは2021年3月26日、日航に対して民事訴訟を東京地裁に起こし、この10月13日に判決を迎えたのだ。
しかしーー。
《主文。原告の請求をいずれも棄却する》
午前11時、加本牧子裁判長は淡々と、抑揚なく判決文を読み上げた。
同事故は日航からの事故原因の説明がないまま、運輸省(当時)事故調査委員会の1987年の事故調査報告書で《ボーイング社の修理ミスが原因で後部圧力隔壁が破壊、急減圧が発生し垂直尾翼が吹き飛ばされたことが原因》とされ、以後の調査は打ち切られていた。
吉備さんが憤る。
「日航や国の対応は辻褄が合わず、おかしな点ばかり。国も日航もなにか隠している。私は墜落原因にずっと疑問を持ち続けてきました。真実はまったく、明らかにされていないんです」
報告書が出てからも、吉備さんの疑問はくすぶり続けていた。
ほかの遺族も含めて何度も訴訟が準備されたのだが、刑事事件として告訴しても不起訴処分に終わったり、損害賠償請求は計32件もあったものの、すべて「和解」となり、真相究明にはほど遠い決着に甘んじていたのだ。
そんななか、元日航客室乗務員の青山透子さんが2010年に出版した書籍(現タイトル『日航123便墜落 疑惑のはじまり 天空の星たちへ』河出書房新社)が口火を切り、事故当時の状況や報告書記載の事故原因など多くの矛盾や疑問にスポットライトが当てられた。
「真相を究明するためには、日航が保管しているボイスレコーダー、フライトレコーダーの音声を開示するしかない」
齢80を迎える吉備さんが立ち上がっての裁判だったが、13日の判決は《請求棄却》。
判断理由に関して裁判所は《原告が希望する事故原因の究明は、被告ではなく事故調査委員会に委ねられ、調査報告書にボイスレコーダーなどの記録が書かれ公表されている。また、1991年ごろまでのあいだに損害賠償請求権に関して和解している。よってボイスレコーダーなどの情報を提供する義務はない》などとし、裁判はものの数分で閉廷した。
直後の原告の記者会見では、股関節の持病で自宅静養している吉備さんに代わり、長女が声を詰まらせながら心情を代読した。
「判決を聞き、非常に残念です。私は事故原因について和解したつもりは一切ありません。日航は、自社の運航便の事件に説明責任はないのでしょうか。この判決は、私の37年間を否定するもの。許しがたい『不当判決』です」
その夜、取材に応じてくれた吉備さんの声には、静かな怒りがこもっていた。
「裁判では『1991年ごろ損害賠償請求で和解』とされていますが、私は当時、『働き盛りの夫を亡くした悲しみのうえ、女手ひとつでは親子の生活も窮する』という『慰謝料』としての説明を受け、手続きは当時の弁護士さんに最後はお任せしました。
『墜落原因は報告書のとおりで納得してください』と言われた記憶は一度もありません。もし言われていても、絶対に納得しませんから」
集団訴訟の一員だった30年以上前の記憶を辿る吉備さんだが「印鑑を押した記憶はない」とハッキリ言い「書面を見たこともない」という。
では、日航側が何を論拠にしているのかというと、当時、遺族と日航でかわされた正式書類は裁判証拠としてなにひとつ提出されていない。
少なくとも吉備さんが「墜落原因に納得し和解する」などと押印した証拠はないのだ。
かわりに1991年当時「日航機事故訴訟、最大の原告団和解」などと報じた新聞記事のみが提出され、裁判所もこれを採用して判決の理由としたのだ。
一方、8月の口頭弁論で原告は、本誌『女性自身』2022年8月16日号《シリーズ人間》で掲載した吉備さんのインタビューを裁判証拠として提出しており、同記事中には報告書の内容に反する証言が続々発見されたことや、報告書が結論した事故原因への吉備さんの疑問の数々を7ページにわたり詳述しているが、判決には一切、採用されなかった。
「米軍のパイロットの証言や、上野小学校の児童の文集などがみつかり、報告書の矛盾は数多く出ていました。だから『ボイスレコーダーなどを開示して真実を知りたい』と訴えていたのに、判決は『報告書に書いてあるから必要ない』と逆戻り。
どうにもならないもどかしさ、悔しさ、腹立たしさでいっぱいです……」
墜落事故で夫を突然奪われた当時、吉備さんは42歳だった。それから37年、昨年には大腸がんの手術をし、今年は持病の股関節の大掛かりな手術に耐えている。
なぜ、そこまでして闘うのか……それは一男一女に恵まれ、幸せの絶頂にいた雅男さんの無念を晴らすためにほかならない。
「判決は主人に報告しました。仏壇の写真の主人は、『まだ弱い』と言っているようでした。
『体を治して、もうちょっと頑張れよ!』と発破をかけられた気がしました」
吉備さんの代理人の三宅弘弁護士は会見で「こんな(新聞の)ペラ1枚でおしまいというのは、裁判所として荒っぽい。真相を追究して証拠を照らし、これから解決したい」と「控訴」の意向を示唆していた。
もとより吉備さんは意欲満々だ。
「控訴します。最高裁まで闘う。どんなことがあっても、折れません。必ず事件の真相を明らかにしてみせます。全国のみなさんの応援が本当にありがたい限りです。
私は絶対に、くたばりません!」
(取材・文:鈴木利宗)