「感動しましたね。碧とは、試合が終わってすぐ(LINEで)『すごいな』って送ったら、『いや、これからだよ』って。次に向かっての意欲というか、もっとこうすればよくなるということを常に本人は考えるんですよ」
12月2日、カタールW杯のスペイン戦で逆転ゴールを決め、日本を決勝トーナメントに導いた田中碧選手(24)。
そんな田中をサポートする浜田山大地整骨院の木下大地院長は、スペイン戦の直後に本人と連絡を取り合ったという。
その田中にライン上ギリギリでクロスを上げ、アシストをしたのが三笘薫選手(25)。“1ミリの奇跡”を起こした2人は幼馴染みだ。
小学校時代に三笘と田中が所属していたさぎぬまサッカークラブ代表の澤田秀治さんは、こう振り返る。
「碧くんは、はじめから驚くような強いシュートを打っていました。 ミニゲームでも次々と相手を抜き、“これはちょっと普通の子じゃないな”と思いましたね。
一方の三笘くんは寡黙でしたけれど、言われたことをすぐ理解する子でした。当時から大人なプレーをしていましたよ。
2人は同じ小学校で碧くんが三笘くんの1学年下でしたから、いつも『薫さん、薫さん』とついて回っていましたね。2人とも、3年生のころには川崎フロンターレの下部組織にスカウトされていきました」
中学校も同じだった三笘と田中。2人が通っていた川崎市立有馬中学で田中のクラス担任を務め、体育の授業では三笘も教えた小松直子先生は当時のことをこう明かす。
「三笘くんは、サッカーのクラス対抗戦で、W杯で見せているようなスーパープレーを何度も披露していましたね。彼の素晴らしいパスのおかげで、クラスメートたちが得点を決めていました。
田中くんは、学校ではいつも友人の輪の中にいて、ワイワイと楽しそうにしていましたよ。川崎市の駅伝大会に学校の代表として選抜されたときも、練習から率先して声を出してチームメートをまとめていました」
中学1~2年生のころ、三笘と田中はサッカー選手として同じ課題に直面することもあったようだ。当時、2人のトレーナーだった川尻大貴さんはいう。
「2人とも体の線が細くて、いつも食事を食べきれなくて、最後まで食堂に残っているタイプでしたね。身がまったくできていなかったんです。腕立て伏せや体幹をメインにしたトレーニングを行いました」
川崎フロンターレでプロサッカー選手となった三笘と田中が、時折訪れていたのは川崎市麻生区にある「ラーメン信華」。その店主はこう回顧する。
「碧は、ああ見えて大食いなんですよ。なすと豚肉の定食を大盛りで食べるし、ライスもおかわりしたりしていました。先輩たちが来ると、『ごちそうさま』なんて言って、支払いは先輩持ち。そういう要領はよかったです(笑)。
三笘さんを最初に見たときは、学生さんかと思いました。コロナ禍でしたから、サインもらうのは後でいいやと思ったら、移籍してチャンスを逸してしまいましたね」