東京都内にある有名病院から現れたのは、小柄な高齢の女性。杖をつきながら、ゆっくりと歩いていたが、後ろから抱えるように女性の腰のあたりをしっかりと支えていたのは、演歌歌手の天童よしみ(68)だった。
天童は迎えに来ていた車へ、女性を慎重に乗せると、ほっとしたような笑顔を見せる。女性は天童の実母・筆子さんだった――。
『NHK紅白歌合戦』には、通算27回、26年連続出場中の天童。彼女を知るレコード会社関係者はこう語る。
「昨年、天童よしみさんは歌手生活50周年を迎えました。天童さん本人も『幼いころからずっと母と二人三脚でした』と言っているように、彼女の半生を語るうえで、今年90歳となる筆子さんの存在は欠かせません」
天童は大阪府八尾市で育った。10代のころテレビ番組『全日本歌謡選手権』(読売テレビ)で10週勝ち抜き、歌手デビューへのチャンスをつかんだが、それも筆子さんのおかげだという。天童は月刊誌のインタビューでこう語っている。
《十週勝ち抜くと、プロ歌手としてデビューできるという番組なんですね。私は、一週、二週と勝ち進んでいくうちに、本格的にプロの歌手になりたいと思うようになっていったの。番組には、毎回、母が付いてきてくれました。最後の十週目では、直前に私が足を骨折してしまったので、楽屋に入るまでおんぶしてくれたんです》(『婦人画報』’00年8月号)
’72年に芸能活動を始めるとき、筆子さんは夫を大阪に残し、天童に付いて上京した。「娘を守る人は私しかいないので、どこまでも付いていきます!」という覚悟だったが、ブレークまでの道のりは平坦ではなかった。なかなかヒットに恵まれず、失意のうちに大阪に戻ることになったのだ。
筆子さんは、売れなかった時代についてこのように振り返っている。
《八尾に戻ってからは私がマネージャー。女2人なので侮られ、出演料を踏み倒そうとする人もいました。キャバレーのトイレで張り込み、ショーの興行主を捕まえて払わせたこともありました。(中略)芳美(※天童)に歌をやめると言われ、『あんたはこんなとこでは終わらん』と言い返しました。娘の歌は誰よりもうまい、いつかは世が認めると信じていましたから》(『天才の育て方』〈朝日新聞出版〉より)
母の一念が天に通じたのか、’85年に天童は運命の曲『道頓堀人情』に出合い、快進撃がスタートすることに。
「続いて『珍島物語』も大ヒット、全国から引っ張りだこになった天童さんですが、コンサート会場の舞台袖には、いつも一脚の椅子が置かれていました。それは筆子さんの指定席で、天童さんはお母さんに見守られながらステージに立ち続けてきたのです」(前出・レコード会社関係者)
そんな母娘の生活に衝撃が走ったのは5年前のことだったという。
「筆子さんが自宅で庭仕事をしている最中に転倒して、両脚に人工股関節を埋め込む緊急手術を受けることになったのです」(前出・レコード会社関係者)