支援者の車でドライブに行く巖さんとそれを見送るひで子さん(写真:落合由利子) 画像を見る

【前編】袴田事件 袴田巖さんの姉・ひで子さん「夢は巖と海外旅行。えん罪被害に終止符を!」より続く

 

10月27日、袴田事件の再審初公判が静岡地方裁判所で始まる。死刑判決を受けた袴田巖さん(87)の48年に及ぶ獄中生活を支え、現在は生活をともにしているのが、姉のひで子さん(90)だ。

 

巖さんに代わって、補佐人として再審に参加する予定のひで子さんが、巖さんとの幼少期と、事件後の苦難について語った。

 

■「火事で持ち出したのは小鳥と落花生。巖は優しい子でした」

 

ひで子さんは1933年(昭和8年)、静岡県の浜名湖周辺で生まれた。6人きょうだいの三女で、巖さんはひで子さんより3つ下の末っ子。

 

「きょうだいが多いとケンカなんかしちゃおれん。だからきょうだい仲はよかったよ。夏はみんなで海水浴、冬は火鉢を囲んで将棋やトランプなんかして。巖はおとなしい子で、年が近い私の後を、いつもくっついて歩くような子だったの」

 

ひで子さんは、自立心旺盛で負けん気が強く、一方の巖さんは、無口で優しい子だったという。そんな2人を象徴するようなエピソードがある。ひで子さん中学校1年生、巖さん小学校4年生ごろのことだ。

 

「当時、地域で行われていた屋外での映画上映会の最中に、『火事だ!』と叫ぶ声が聞こえて、ひょっと見たらウチの方角から火の手が出ていたの。“こりゃいかん、ウチに燃え移る”と思って、急いで巖の手を引いてウチに戻り、タンスの引出しを1つずつ引っ張り出して、私ひとりで近所の畑まで運び出しました」

 

おかげで家財道具は焼失を免れた。

 

「そのとき巖が運んだのは、飼っていた小鳥と、母親が煎ってくれた落花生が入った鍋だけ(笑)。巖は、そんなのんびりした優しい子だったのよ」

 

終戦後、ひで子さんは15歳で地元の税務署に就職。女性はお茶くみ係で、結婚までの腰掛けという時代。

 

「私は、そんな仕事じゃ満足できんし、一生、夫に扶養されるような人生はイヤでね。

 

だから手に職をつけようと、仕事終わりにそろばんやタイプライターを習いに行ったの」

 

しかし、スキルを磨いても、任される仕事は帳簿整理だけだった。「これではいかん」と思ったひで子さんは、13年間務めた税務署を退職。28歳で税理士事務所に転職し、本格的に経理を身につけていった。仕事をバリバリこなす一方で、恋多き女性でもあった。

 

「職場に女性が少なかったからか、モテたわね(笑)。私は男とか女とか気にしない性格だから、紅一点の社員旅行でも平気で参加したし、休みの日には役所の独身寮に集まって、男性社員に交じってマージャンするのも楽しみだったの」

 

21歳で結婚するも、1年で離婚したひで子さん。キャリアを重ねつつ青春も謳歌していた。

 

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