曽野さんを学生時代から敬愛されていたという美智子さま(写真:共同通信) 画像を見る

美智子さまの文学の友である作家・曽野綾子さんが逝去したのは2月28日のことだった。享年93。

 

美智子さまと曽野さんの交流は70年ほど前にさかのぼる。1953年に美智子さまは聖心女子大学文学部にご入学。曽野さんは当時、才能あふれる新人小説家として注目される存在だった。

 

皇室に詳しいメディアプロデューサーの渡辺満子さんはこう話す。

 

「美智子さまが聖心女子大学に入学されたとき、曽野さんは4年生でした。すでに作家として有名で、美智子さまとご友人方は敬意と憧れの気持ちを抱いて曽野さんをご覧になっていたのです」

 

在学中も曽野さんは美智子さまのことをご存じだったというが、親しく交際することになったのは大学卒業後だった。

 

「文学に造詣が深い美智子さまは、同じ本を読んでいる人と共感されることが多いのです。

 

美智子さまが、曽野さんとの交際を深めていかれたのも、そうした文学のお話が弾んだからなのだと思います」(渡辺さん)

 

美智子さまは曽野さんの作品の愛読者でもあったようだ。美智子さまの講演録『橋をかける』や、英訳を担当された絵本『THE ANIMALS「どうぶつたち」』などを手がけた編集者・末盛千枝子さんは、次のように話した。

 

「曽野さんの長編小説『天上の青』は毎日新聞に連載され、’90年に出版されました。

 

“天上の青”は、英名ではヘブンリー・ブルーといい、物語に登場する朝顔の品種の名前です。

 

当時、私は『橋をかける』の打ち合わせのため、御所によく伺っていました。ある日、お部屋のあちらこちらにとても素敵な濃い青色の大ぶりな朝顔が飾られていたのです。 美智子さまに、『曽野さんの「天上の青」の朝顔ではないですか』とお尋ねすると、とてもうれしそうなご様子だったことが強く印象に残っています。

 

曽野さんとご主人の三浦朱門先生(作家・故人)とは、美智子さまのお誕生日の集まりなどでお目にかかることがありました。

 

美智子さまは曽野さんに接するとき、先輩とお話しするような感じでした。お二人には、聖心女子大学の先輩と後輩という絆がずっとあったのだと思います」

 

かつて曽野さんは本誌の取材に、美智子さまのお誕生日でのエピソードについて話してくれた。

 

「皇后さまのお誕生日に私もお呼ばれするのですが、30分ほど音楽会をなさるのです。

 

必ず皇后さまがピアノで伴奏され、音楽会のプログラムにはいちばん最後に『伴奏・白樺』と書いてあるのですね。

 

最初、私は“中国語圏の方がいるのかな”と思っていましたが、白樺は皇后さまのお印で、皇后さまご自身のことだと気づきました。

 

もし『伴奏・皇后陛下』であれば、(宮中の決まりで)いちばん最初にお名前を記載しなければいけません。でも皇后さまは、あくまでも自分は伴奏者だからと、ほかの演奏者たちに配慮されていたのです」

 

曽野さんは、一般国民の生活を天皇皇后両陛下にお伝えする“パイプ役”でありたいと、願い続けていたという。’19年には週刊誌のインタビューにこう語っている。

 

《(私の)三浦半島の家は、葉山の御用邸から車で30分ほど。たいていご静養中にお電話があり、6時半くらいにいらして、夕食を召し上がっていかれます。家は大根畑の中にありますから、田舎料理ですよ。お食事にお出しするのも、大根の煮物とか、新鮮な大根の葉っぱの浅漬風とか……(中略)会話も、大根の値段が高いとか安いとか、夫婦げんかをしたとか、そんな普通のお話をします》(『週刊新潮』’19年5月2日号)

 

曽野さんは“普通の生活”が許されない、大学の後輩をいつも案じていたのだ。

 

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