【前編】「3日ほど前に、NHKから知らされました」小泉八雲のひ孫が明かす、『ばけばけ』モデル・セツへの“思い”から続く
ハーンは中学校ではヘルン先生と慕われ、『松江日報』にも、日本文化を理解し、和装や和食を好む外国人と好意的に報じられている。
「また、日本では、小柄な身長でもコンプレックスを抱かずにすんだので、居心地がよかったのかもしれません」(伊藤さん)
間もなく、2人は事実婚。富田旅館から一軒家へ転居するのだが、そのきっかけにはハーンの優しさがあったという。
「宿の娘の眼病を心配したハーンは、宿の主人に病院に連れていくことをすすめるのですが、『はい、はい』と返事するだけで一向に連れていかない。そこで《珍らしい不人情者、親の心ありません》と激高し、いきなり引っ越すことになったのです」(伊藤さん)
目が不自由なハーンにとって、娘の眼病がわがことのように感じられたのだろう。共に生活することで、セツはハーンの優しさに触れることがしばしばあった。4?5人の子供が小さい猫を水に沈めていじめている場面に遭遇したセツが、猫を子供たちから救い、家に持ち帰ったときのこと。ハーンは《おゝ可哀相の小猫むごい子供ですね》と、ふるえている猫を、自分の懐に入れて温めたのだ。その姿に、セツは《大層感心致しました》と記している。
「ハーンは潔癖で、不人情なことが嫌いでした。人力車の車夫を雇う際にも『あなた、奥さんを大事しますか?』とわざわざ確認するほどでした」(小泉さん)
また、神経質な一面もあった。旅行の際、宿屋で酒を飲んで騒いでいる人に遭遇すると、セツの袂を引いて《駄目です、地獄です、一秒でさえもいけません》と、その場から離れたがる。セツはそんな姿すらポジティブに受け止めたようで、《ヘルンの極まじりけのないよいところであったと思います》と振り返っている。
とはいえ外国人が珍しい時代。セツは好奇の目で見られることもあった。
「いくらハーンが日本好きで、ヘルン先生と慕われていても、当時は羅紗緬といって、外国人の妻や妾を指す蔑称もあり、さまざまな陰口を耳にすることもあったはずです。セツには、それをモノともしない心の強さがありました」(小泉さん)
1893年11月、セツは長男を出産。ハーンは、自身のラフ“カディオ”の名をもじって一雄と名付けた。
「そのころ、一家は熊本へ転居。寒さに閉口したことに加え、珍しい外国人家族であったため、セツが生まれ育った松江では住みにくいのではという、ハーンの配慮があったのかもしれません」(小泉さん)
1894年には神戸へ。さらに翌年、「家族がいる日本をベースにするため」(小泉さん)、島根県知事宛てに外国人入夫結婚願いを提出し、帰化を申請。1896年に許可が下り、ハーンは日本国籍を取得した。和歌で、出雲国にかかる枕詞「八雲立つ」にちなみ、「小泉八雲」と名乗り、新たな日本人としての人生を歩み始めたのだった。
