第3話 仕掛けた母の誕生日

image実は、私には、子供の頃、あまり誕生日祝いをしてもらった記憶が、ない。
母の信条は、

「新年には、誰でも一つ年を取る。」

というものだったので、誕生日には、あまり重きが置かれなかったんだと思う。
それでも、私と妹の誕生日には、家族でケーキぐらいのお祝いは、したんだろうか。そんなおぼろげな記憶しかない。それは、多分、死んだ父が、大変な食い道楽で毎週末、私たち家族は外食三昧だったことと関係しているのかも知れない。

私たち姉妹が育った60年代、70年代は、今と違いファミレスなどなかったが、両親は、毎回堂々と子供2人を連れて、立派なレストランに連れて行ってくれた。私には、生涯忘れることが出来ない食体験だ。言わば、毎週末が誰かの誕生日祝いのようなものだったんだな、と今振り返ると思う。

imageさて、今回母を被写体に撮影を始めることが出来たのは、昨年の9月だった。母を被写体に映画を作りたい、と真剣に考え始めたのは、2009年の初めだったから、丸9ヶ月もかかったことになる。認知症の症状のある母親を撮る、しかも、自分で撮影をする、という決断は、私にとっては、清水の舞台から飛び降りるような覚悟だった。

この新作は、私の前3作とは、制作状況が、何から何まで異なる。自分の母親を撮るだけでもビビリそうなのに、今回は、自分でカメラを回そうと言うのだ。しかし、母の行動や心の動きが、予測しにくい状況の中で、プロのカメラマンにお願いするのは、無理だし、何よりも資金繰りが、つかない。さらに、母の状態を考えれば、ビデオカメラは、常時必要だ。

image一体どんなビデオカメラが、いいのか。正直、皆目見当もつかなかった。
そんな中、私に救いの手を差し伸べてくれたのは、昨年12月まで教鞭を取っていたシドニー映画学校での上司の一人、ファビオ・カヴァディーニ氏だった。彼は、オーストラリアのドキュメンタリー界では、名の知れたカメラマンだ。ファビオは、私の悩みを真摯に聞いてくれ、カメラの提案をしてくれ、何とカメラを買いに行くのまで付き合ってくれたのである!

後で彼の妻から聞かされたのだが、イタリアで住んでいたお母さんが、最後はアルツハイマーを発病し亡くなった、とのこと。しかし、ファビオは、遠いオーストラリアから何もしてやることが出来なかったことを今も後悔しているのだ、と。認知症やアルツハイマーは、国境を越え、文化を超え、誰にでも訪れる可能性があり、この時初めて、この映画を作るべきだ、と強く後押しされたように感じた。

 

ドキュメンタリー映像作家 関口祐加 最新作 『此岸 彼岸』一覧

関口家でも使っている、家族を守る”みまもりカメラ”

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