世の中にフィクサーという仕事があるのを、みなさんご存じだろうか?ヤクザ、原発、風俗、富士の樹海……。そんな”危険な”場所を取材する海外メディアの水先案内人となるのがフィクサーだ。本連載は、フィクサーという職業を選んだ若き女性2人の、活躍と苦悩、そして感動の記録である。

斎木 茜(さいき あかね)1982年生まれ。明治大学日本文学科専攻。在学中に1年休学し、上海交通大学へ語学留学。2006年明治大学卒業後、語学を学ぶため渡仏。後にパリで映画製作に携わり、北京で1年滞在し映像関係、PRとして働いた後、2010年日本に帰国。写真家のプロダクションに就職後、東日本大震災をきっかけに退職。現在フリーのフィクサーとして活躍中。


瀬川 牧子(せがわ まきこ)1981年生まれ。フィクサー&ジャーナリスト。産経新聞で記者を経験した後、2009年以降、フィクサーとして働く。シンガポールの民間衛星放送・Channel News Asia、イラン国営放送 Press TV、フランスの国営放送France 24、アルジャジーラ、マグナム・フォト、米国HBO Viceなど顧客は多数。2012年9月からフランスの国際ジャーナリスト団体NGO「国境なき記者団」日本特派員として任命。「国境なき記者団」が毎年発表する自由報道度の日本ランキング調査などに関わる。

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◎突如野獣化したクライアントの紳士たち

3・11の被災地の取材で一時東京を離れた私は、YAKUZAをキレさせたりなどお騒がせドイツ人映像作家(独B)、そして何よりもYAKUZAと縁が切れたと思って少々ほっとしていた。

震災直後は東北を目指して世界中から百戦錬磨のトップジャーナリストらが一気に押し寄せていた。「過去とはこれで決別。これから、ジャーナリストそしてフィクサーとしての新天新地が私を待っている」と、私のクライアントである世界のエリート記者集団を目の前にして気を引き締めた。

 

 

震災直後から約1ヶ月間、被災地の様子は悲惨そのものだったが、フィクサーとしてお世話に当たった海外の報道陣は、みなそれはそれは紳士だった。

私は、英国(日刊紙テレグラフ)、カナダ(日刊紙グローバル・ポスト)、イスラエル(日刊紙・Y-NET)などのメディアと共に、福島をはじめ東北被災地沿岸部を渡り歩いた。瓦礫の中を歩くときは、オックスフォート大卒の見るからに貴族風のお坊ちゃまジャーナリストが、私が躓かないよう始終私の手を引きながら、「僕が守ってあげる。大丈夫だからね」と優しい声をかけて励ましてくれた。警察の捜査隊が遺体を運ぶ場面に遭遇した時などは、「女の子は絶対見ちゃだめだ!目を上げて向うの山を見ていなさい!」と注意もしてくれた。「お腹空いていない?」と、スニッカーズ、キットカット、セサミ、プロテイン入りチーズなど高カロリーのエサを一時間ごとに与えてくれもした。

しかし紳士然としていたのは昼間の間だけ。夜になると疲労と空腹感で突如野獣化し、「フード!フード!」と叫び始めたのである。

沿岸部は飲食店が壊滅状態で食事のできるところが全くないことから、われわれは山脈を越え、焼肉と冷麺をめざして毎夜100キロ以上離れた盛岡市内までワゴン車を飛ばした。取材中はそんな高カロリーな食事が続いたものだから、震災直前より一気に3キロ以上も体重が増えてしまった。しかし今思うと、食欲、そして女としての自尊心が最高潮に満たされきった20代最後の瞬間だったのかもしれない。

 

◎イソジンを原液のまま飲んでみたものの…

それはともかく、私は初めて経験する戦場さながらの現場取材で、緊張と興奮が極限にまで達していた。そのためほとんど睡眠をとることができず、昼間は半分夢を見ているような状態だった。

いや、今もあの時の取材は夢だったのかもしれないと感じることがある。「ゴジラだ!真っ黒なゴジラがオラを襲ってきた!」――その声が、今もまだ夢の中で聴いた声のように耳に残っている。

町全体がほぼ壊滅状態となった岩手県陸前高田市では、避難所指定の体育館に逃げ込んだ住民約90人が津波で流された。津波をゴジラに例えたその老人は、数少ない生き残りの一人で、鉄骨だけ残ったその体育館の前でまだ茫然としていた。目の前で起きた悲劇が余りにも大きく、人間の限られた想像力を遥かに超えてしまい、現実感が失われてしまったのだ。その感覚は、取材に当たった私たちにも確実に伝染っていた。

 

福島第一原発で水素爆発が起きた3月12日の夜。私は、お腹を空かせた紳士集団と、郡山駅前の商店街にある老舗ラーメン店で、ご当地ラーメンと餃子をガツガツほおばっていた。まさか福島第一から60km以上も離れた中通りには被害はないだろうと皆思っていた。しかし後で分かったことだが、政府が当初隠蔽していたスピーディ情報地図によると、そこは正に被ばくの“震源地帯”だったのだ。

被ばくということでは、英国人の紳士ジャーナリストが、福島に入る数時間前、ワゴン車の中で東京在住の医療関係者と思われる女性に「被ばくを防ぐ処方はないか?」と携帯で問い合わせたところ、「うがい薬の『イソジン』と昆布茶を毎日3回飲むように」との助言が入った。そこで、われわれは埼玉と栃木の県境のドラッグストア店で、イソジンと昆布茶、そして放射能物質吸引を防ぐためのマスクを大量に購入し、福島の避難所の駐車場で「イソジン」を原液のまま飲んた。しかし、そのあまりに強烈すぎる味に、みんな車の陰で吐き出してしまった。安定ヨウ素剤の代わりということなのだろうが、効果云々以前にアレをそのまま飲み込むのは至難のワザだ。

爆発から数日後だったと思う。福島駅西口のバスロータリーに停めてある観光バス4、5台に、口にマスクをした中国人の団体数百人が、ガラガラとスーツケースを引きながら我れ先にと乗車しようと騒いでいた。中国政府から出国命令が出ていたのだ。その様子を「彼らは何を騒いでいるのかね?」と眺めていた日本人タクシー運転手の不思議そうな顔が、今でも目に焼き付いている。

 

◎被災地の現実を伝えない日本のメディア

未曾有の超大規模災害で、行政はほぼ完全に麻痺し、配給物資の不足や遅れが被災地の至る所で見受けられた。

 

震災から数日後のある夜、私たち取材陣がいつものように盛岡市内の焼肉店で焼肉や冷麺を食べていると、英国BBCの撮影班にばったり遭遇した。

さすが世界のBBC様だけあって、撮影班としては多すぎると思えるほどのスタッフを抱えていた。私が知るだけでプロデューサー2人に、ディレクター1人、レポーター一人、通訳とフィクサー、そしてカメラマンの全部で7人。私と同年代の中国人フィクサーのユーリさんに「今日は何を取材してきたの?」と聞くと、彼女は「石巻の赤十字病院が悲惨なことになっているから、それを報道したわ」と答え、悲しそうな目で静かに打ち明けてくれた。「病院では、大勢のお年寄りに食べ物が行き渡らず、みな餓えた状態だったの。24時間態勢で不眠状態で働く医師らにさえ食糧が行き渡らず、2~3人で1本のバナナを分け合っていたわ」。

日本のテレビが「被災者の助け合い精神」「震災直後の出産エピソード」などの美談で盛り上げていた中、BBCはしっかりと被災地の現実を伝えていたのだ。

ガソリンや食糧などの物資がなかなか被災地現場に届かない理由を、行政側は「東京と被災地を直結する東北自動車道を始めとする交通インフラが破壊されているため」と説明していたが、そんなのは言い訳でしかない。石巻市の赤十字病院のすぐ目の前を東北自動車道が通っているが、ほぼ無傷の状態だったのをBBCが取り上げている。命綱となる東北自動車道は地震で交通規制になるほどの打撃は受けていなかったのだ。その証拠に、メディアとして特別許可証を持った外国メディアらは震災時何度も東北自動車道を往復しているし、その間何の事故も起きていない。

被災地で目撃した現場は、まさに阿鼻叫喚の地獄図。芥川龍之介の『羅生門』さながらの光景だった。しかし日本の大手メディアは美談を伝えるばかりで、現実と報道との乖離にひどく腹が立った。

そこで私は、夜少し時間ができた時に、「どこかでこの状況をみんなに知って欲しい」と願い、昼間取材の立ち会いで知った事項をメモに書き留めた。そしてそのメモを片手に、知り合いのフリーランス・ジャーナリストの畠山理仁さんに現場から電話して現状をまくし立てた。「報道して下さい!」と思い切って依頼すると、ほぼその日のうちに手を打ってくれた。私の陳情を元に、畠山さんが2011年3月23日付けで自身の人気ブログに「『食料をくれ!』という記事にアップしてくれたのである。「瓦礫のなかの悲痛な叫び このままでは餓死してしまう」――このブログのおかげで、被災地の隠された闇の部分が白日の下に晒された。

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