日本では3組に1組が離婚しているという事実をご存知でしょうか。私は耳を疑いましたが、どうもこれは事実のようです。結婚しない人が増え、結婚年齢も高くなっていく晩婚化が進む今の日本社会。結婚できない人もいれば、結婚しない選択をする人も増えているのでしょう。
永遠なる愛を誓ったのに別れてしまう離婚。今回は、“悪魔の誘惑”ともされてきた離婚について考えてみたいと思います。まず私の結論から言うと、離婚が必ずしも悪ではなく、結婚を維持することが必ずしも善だとは思いません。離婚を一概に罪悪と見なすのは、時代遅れの発想です。結婚を維持したからといって双方が幸せな人生を送れるとは限らず、離婚したからといって不幸になるとも限りません。離婚してからも双方が幸せに暮らしている人々もたくさんいます。
皮肉な結果かもしれませんが、離婚率が高い国は女性の社会的な地位が高い国でもあるといわれています。それは女性の社会進出が進んだことを意味し、支える男女雇用均等法的な考えがより浸透されていることを意味します。そして経済的に従属していた女性が、経済力を身につけることで離婚を選択できるようになったということです。
また離婚率が高くなるのには、女性のなかでの人権意識が高まったことも原因として考えられます。“自由や平等”といった西洋的な価値観が浸透するにつれ、離婚は増加してきました。一昔前の伝統的な規範のなかでは、結婚生活の主導権は常に男性にあり、男性から離婚を申し出ない限り女性は我慢すべきという考え方が一般的でした。しかし“New Eve、 Old Adam”という言葉に象徴されるように、現代は女性の意識に男性が追いつかない時代になってきています。女性の忍耐で維持されてきた家庭が必ずしも理想的ではなく、女性にとっても理想的な人生ではないということに女性側が気づいたのでしょう。
さらに昔は当事者よりも家族や親戚など周囲の人々の力が大きかった。しかし次第にそうした力は弱まり、当事者の意志が重視されるようになりました。つまり結婚も離婚も家同士のものから、本人同士のものに変わったのです。外部的なある種の圧力によって離婚が制限されてきた時代、離婚は女性にとって「社会的な死」を意味しました。だから、女性から離婚を選択することはできなかった。しかし今や、結婚は当事者同士の広い意味での“魅力や愛”によってでしか支えることができなくなった。それらが薄まれば二人の関係は枯れ、離婚するようになるのです。個人主義的な考え方が浸透したことや、昔に比べて離婚した人への社会的視線が比較的に緩やかになったことも、離婚率上昇に影響しているのでしょう。
最近、「恋は奇跡、愛は意思」という某デパートの広告が女性の間で静かな反響を呼んでいるようです。恋は奇跡で、意思を超えた運命の女神の仕業であるとすれば、愛は相手に対する思いやりや、それに基づく意識的な努力を通じて二人が育んでいくことができるものです。ドイツの哲学者のエーリヒ・フロムが『愛するということ』という本のなかで論じたように、愛にも技術があります。積極的に愛するためには自己肯定と他者への共感のどちらかを犠牲にするのではなく、その両方を持ち合わせないといけないのです。
いずれにせよ、結婚も離婚も二人の自由意志の対話の結果であるならば、それは常に尊重されるべきであり、他者がどうこういうべき事柄ではありません。その自由意志の行使が男性にも女性にも平等に容認されているということこそ、成熟した社会の証のように私は思います。
ジョン・キム 吉本ばなな 「ジョンとばななの幸せって何ですか」(光文社刊・本体1,000円+税)
吉本ばなな
1964年東京生まれ。’87年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。’88年『ムーンライト・シャドウ』で泉鏡花文学賞、’89年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で芸術選奨文部大臣新人賞、同年『TUGUMI』で山本周五郎賞、’95年『アムリタ』で紫式部文学賞、’00年『不倫と南米』でドゥマゴ文学賞をそれぞれ受賞。海外でも多くの賞を受賞し、作品は30カ国以上で翻訳・出版されている。近著に『鳥たち』(集英社刊)、『ふなふな船橋』(朝日新聞出版社刊)など。