前回は、大量消費社会の反省からモノを持たないミニマリスト(持たない暮らし)的な精神への関心が西洋諸国で高まっていることに触れました。本質でないモノを捨て、本質でないコトをやめ、本質でないヒトから離れることで、本質だけで固めた純度の高い人生を送ることができる。もちろん捨てる、やめる、離れるためには、何が本質なのかを見極め、そのための判断基準を確立することが前提としてあるのは言うまでもありません。今回は、ミニマリストの一員でもある私の生活の一部をご紹介したいと思います。
まず、私はモノをほとんど持っていません。通常、日本で引っ越しとなれば、数トンのトラックが家の前に来て大量の段ボールを詰め込んでいくものです。この際に我々はモノを整理するのですが、それは捨てるモノを精査していくスタンスです。しかし私の場合は「何を捨てるか」ではなく「何を持っていくか」という発想をします。そうすると、自分にとって本当に必要なものはそんなにないということがわかってくるのです。
例えば、私が数カ月間の生活のためにヨーロッパへ行くときは、スーツケース1個にすべて収まります。もっと言えば、パスポートとクレジットカードさえあれば生活に問題ないことを私は経験上知っています。これは極端な話に聞こえるかも知れませんが、私のようなデュアルライフ(複数の国で複数の拠点を持って生活をする者)を送っている人にとっては、容易に共感できる話です。つまり、すでにあるモノから不要なモノを捨てるという発想ではなく、何もないという前提で本当に必要なモノだけを拾うという発想をするのです。
もう一つ例を挙げれば、私はここ15年ほどガバンを持ったことがありません。ちなみに時計もしていません。私は自分の両手を自由にさせることが、精神の自由の証のように感じます。ただ、そういう私がいつもポケットに入れて持ち歩くモノがあります。それは100円ショップで大量に購入した葉書サイズのメモカードとボールペンです。
そのメモに日常生活で感じたこと、考えたこと、語ったこと、聞いたこと、そして経験したことの本質をひたすらワンフレーズで刻み込みます。私はそれを「100本ノック」と呼んでいて、1日100枚書き出すことを自分に課しています。1週間それを続ければ700本たまるので、今度はそれを凝縮したり、分類してみたり、つなぎ合わせたりする。その作業を繰り返すと思考のからみあいがほぐれ、次第に一つの命題が見えてきます。
古代ギリシャの哲学者・アリストテレスは言いました。「真の知性のある人は、複雑な現象をシンプルな命題に落とすことができる人である」と。世の中の現象は複雑で、すべて記述しようとすると何万ページあっても足りません。しかし本質を見抜くことができる人ならば、それをワンフレーズに落とすことができます。例えば300ページの本を1ページに要約するときは、299ページ分を捨てる勇気と本質を見極める視点が要求される。そういう練習を繰り返していくことで、物事を本質的に理解する習慣がついてきます。
日常のなかで自分が時間やエネルギーを配分したあらゆる体験に思索を加え、出来たらそれを自分の言葉にしていくこと。体験に思索を加えると、体験は洞察になっていきます。その洞察を書き残していくと、それがいずれ自分の人生を支える哲学の原材料になっていく。観察を思索に落としていく作業のなかで思考は深化し、思索を言葉に落としていく作業のなかで、思考は完成します。そして、その先にはシンプルで本質的な人生が待ち受けていることでしょう。
ジョン・キム 吉本ばなな 「ジョンとばななの幸せって何ですか」(光文社刊・本体1,000円+税)
吉本ばなな
1964年東京生まれ。’87年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。’88年『ムーンライト・シャドウ』で泉鏡花文学賞、’89年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で芸術選奨文部大臣新人賞、同年『TUGUMI』で山本周五郎賞、’95年『アムリタ』で紫式部文学賞、’00年『不倫と南米』でドゥマゴ文学賞をそれぞれ受賞。海外でも多くの賞を受賞し、作品は30カ国以上で翻訳・出版されている。近著に『鳥たち』(集英社刊)、『ふなふな船橋』(朝日新聞出版社刊)など。