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「死ぬときぐらい好きにさせてよ」。衝撃的なキャッチコピーの横で、女優の樹木希林さん(73)が森の小川の水面に仰向けで浮かんでいる。そんな宝島社の企業広告が話題を呼んでいます。これは英国の画家ジョン・エヴァレット・ミレイの名作『オフィーリア』をモチーフにしたもの。死について深く考えることで、どう生きるかを考えるきっかけにするために作られたようです。樹木さんもこう答えています。「『生きるのも日常、死んでいくのも日常』。死は特別なものとして捉えられているが、死というのは悪いことではない。そういったことを伝えていくのもひとつの役目なのかなと思いました」。たしかにその通りで、いかに死ぬかは、いかに生きるかと同じことです。

人生はいつ終わるかわからない。その緊張感を持つこと。人生が有限だと気づけば、いまこの瞬間を深く刻むことの重要性に気づけます。取るに足らないつまらないことにわずらわされることが、いかにもったいないことか。感情がネガティブに揺さぶられることが、どれほど貴重な時間を毀損するか。いま目の前にいる人は、もしかしたらこれが最後の出会いかもしれない。そんな気持ちを持って人に接することができるか。命の大切さを知れば、なんとなく会い、なんとなく過ごしていくことの恐ろしさに気づくことができます。

人間はいつか死にます。自分の命や人生は、それまでの借り物にすぎません。借りたものを満喫しながら最終的には返却していかなければいけないのが、悲しいかな、人生なのです。命への所有意識が死への恐怖を生み出します。失った悲しみは、所有意識から生まれます。だからこそ命は借り物だと考える。そんなある種の開き直りを持った瞬間、心が変わります。平穏な自分の内面状態を維持することができるようになります。日常のあらゆることが、超然と見られるようになります。将来を描くことも大事ですが、それ以上に大事にしなければならないのは、いまこの瞬間なのです。

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人生は決して短くありません。短くしているのは自分自身です。人間は、あたかも永遠に生きていけるかのように時間を過ごします。ところが病気にかかったり死が近づいて来ると、「自分の人生はなぜこんなに短いのか」と神様を憎んだりもする。そのくせ、肝心の与えられた今日この瞬間を有効に活用できていなかったりするものです。終わりを意識したとき、人間は初めて瞬間の持つかけがえのない価値に気づきます。端的に言えば死生観を持つこと。死を意識することによって、初めて生の意味が出てくるのです。

私は、人生の価値は生きた時間の長さと瞬間の深さをかけた面積で表すことができると考えます。自分がどう生き瞬間に対する緊張感や集中力を持つかによって、人生の価値はいくらでも高めることができます。「今日私が死んでも世の中は変わらない。しかし私が生きている限り、世の中は変えられる」。アリストテレスの言葉です。死を意識することで生が苦しくなることもありますが、生をより価値あるものにすることもできます。こうした死に対するある種の“割り切り”を持つことで、幸せを増やすことができます。

人は夢や自信や情熱を持ったとき、それらを生かしていまの自分が考えうる範囲を遥かに超えた成長を遂げることが出来ます。だから常にダイナミックな動きのなかで人生を捉えてほしい。人生は常に動いていて、変化しています。そしてその「変化」こそが、生物としての唯一の証なのです。変化出来ないものは、死んでいるもの。自分が変化出来ているということは、つまり「自分が生きている」ということの証拠なのです。

 

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