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今回日本へ発つ直前、イタリアのわが家の近所を流れる、河のほとりの桜の木々が淡いピンクの花々を満開にしていました。美しい春の訪れの知らせに、仕事づくめでささくれていた私の気持ちも、それを目の当たりにしたとたんすっかりほころびました。そしてイタリアの夫の実家でも、庭に植えられたアーモンドの木に花が満開になっているのを見て思わず歓喜し「日本では、庭にこれだけの花を咲かせた木があったら、迷わずお花見をするだろう」ということを口にしました。

イタリア人の家族はもちろん、お花見が何たるかを良く判っていませんから、日本人が奈良時代から始まったと言われるこの古来の風習をいかに大事にしているかという事と、桜の花へのこだわりというものを説明しました。それに対して「木の花ってそれほどのものかね」と姑は素っ気なく反応し、そのまま自分が温室で栽培している自慢の極彩色の蘭など南国の花々を私に見せながら、「こういう花の方がずっと可憐じゃないの。だいたい木の花なんてすぐに枯れて散ってしまうのものだし、私はこっちのほうが俄然好きだわ」と返してきたのでした。

かつて日本式に炊いた米を食べて「塩が入ってない!味がしない!」と叫んだ彼女の、そういうリアクションが想像できなかったわけではありませんが、いかにも合理主義的で味気ない言葉に、何だかもの凄く残念な気持ちになってしまいました。

イタリア人の義母に、日本の花見というものが、『美しく花を咲かせた木の下に集まって、春の訪れを喜ぶ宴会』的な要素を持つものだけではなく、『社会的儀式』でもあること、例えばとある会社の新人社員が夜の花見のために早朝から身体を張って場所取りをしなければならなかったり、宴会の挙げ句に酔っぱらって自分のダメっぷりをたくさんの人の前で披露するという顛末になってしまっても、春への胸の高揚でそんな自分も許せてしまうこと、などを口にしてもさっぱり意味を理解してもらえないだろうと私は思いました。

花見というのは、単にそこに咲き誇る美しい桜を愛でるという意味だけではなく、冬の間は地味な木肌を晒すだけだった不動の植物が、一気に、しかも思い切り可憐な生命反応を示すことに驚きと喜びを煽られ、それを祝賀という形で表現したい、という思いの現れの行為とも言えるでしょう。

姑は「直ぐに散ってしまう花は弱々しくて嫌だ」と言っていましたが、その期間が限定された美しさに対して私たち日本人は「儚い」という言葉を使います。こうしたニュアンスの言葉はイタリア語にはありません。「美しい壊れ易さ・脆さ」とか「夢のように消えてしまう美しさ」といった回りくどい形容では決してその意味を果たしきれない「儚い」という言葉は、日本人独特の感性が生み出したものなのではないかと思います。

でも、形があるものは永遠には残らないという理念が、石造りの建造物が何千年経っても残っているような国においては共有してもらえないものなのか……というと、決してそんなこともありません。

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