4月某日 東京
漫画で食べていけるようになり、自分を漫画家だとはっきり名乗れるようになってから、この職業に就くに至ったきっかけとして、子供のころに読んでいた漫画の影響力について考える機会が増えました。基本的には活字を読むのは大好きだった私ですが、それと同時進行で漫画の世界に心を奪われていたのは小学校1年生から5年生くらいまでの期間で、その後は、漫画に注がれていた興味は再び音楽や活字に向かいました。時を経て子供を出産し「子供を育てるために漫画家になろう!」と素っ頓狂な発想をして、その下準備を始める27歳になるまで、ほとんど漫画は読んでいません。
幼いころ一番最初に読み始めた漫画は、ご近所に暮らしていたお友達の家で、その子のお兄さんが愛読していた『魔太郎が来る!!』や『がきデカ』といった作品でした。それを機に週刊少年チャンピオンを愛読するようになっていったのですが、ホラーやナンセンスギャグの他、『ブラックジャック』や『火の鳥』といった手塚作品や藤子不二雄のSFものなど、「子供の頃に大好きだった漫画は?」と聞かれたら、たいがいはそういった少年誌の作品が脳裡に浮かんできます。
でも、よく考えてみたら私は途中からしっかりと少女漫画の熱心な読者にもなっていて、特に白泉社の少女まんが雑誌『花とゆめ』には、激しく心を奪われていました。なんせ、当時の『花とゆめ』には美内すずえさんの『ガラスの仮面』、山岸凉子さんの『妖精王』といった、少年チャンピオン同様、そうそうたるメンツの、そうそうたる作品がぎっしり掲載されていて、私だけではなく通っていた小学校のクラスメートの何人かも、やはり『花とゆめ』の世界に引込まれていました。
その中でも私が最も激しくハマっていたのは、三原順さんが連載されていた『はみだしっ子』という作品でした。萩尾望都さんや竹宮恵子さんの描く耽美的な、19世紀の文学作品を思わせる欧州の少年少女たちを描いた作品に既に取り憑かれていた私でしたが、三原さんの描く世界観はそれともまた少し違う。舞台が欧州であっても(はみだしっ子は多分イギリス)過去ではなく現代、ということもありますから、読者は「これは別次元の物語なんだ」と思い込みたくても、そこにはジョーン・バエズやローリングストーンズといった、当時一世風靡をしていた人気ミュージシャンたちの固有名詞が出て来たり、周りの大人の態度や様子や服装から、一気に視点を現実に戻されてしまいます。
以前もこちらのエッセイに書きましたが、私はもともとディズニーの道徳観が盛り込まれたファンタジーよりも『トムとジェリー』のような、子供に媚びないシニカルさが盛り込まれた現実的アニメーションが好きでしたから、たとえ可憐な有様の西洋の少年たちが主人公であっても“自分とはかかわりのない非現実的世界のお伽話を見せられているわけではない”というのが、当時の私にとっての『はみだしっ子』の魅力だったのかもしれません。
三原順さんが亡くなられてから20年目となる今年、私は彼女に捧げられたイベントに参加するため、再び小学校時代に読みふけた三原順作品を手に取ってみたのですが、改めて感じたのは、三原さんの作品は実直に、子供が読むことを想定して描かれていない、ということでした。
漫画というのは世間一般的には、子供たちに将来への健やかな精神的育成のためのツールであるべきだ、と解釈されがちですが、『はみだしっ子』では、読めば読むほど人間の社会に対して絶望的気持ちを子供心ながらに募らせるしかない。
伴侶を早くに亡くし、シングルマザーとして生きていかねばならなかった私の母親が、周りから非情な干渉をされていたり、好きな音楽で行きていくことで家族との激しい軋轢を経験してきていることを、幼いころから目の当たりにしていたので、『はみだしっ子』で描かれている、人間社会の生み出した澱の中で葛藤する大人たちや、そんな大人たちの犠牲となっている子供たちの姿が、とてもリアルな質感で自分の感性に訴えかけてくるのでした。