6月某日 北イタリア・パドヴァ
北海道の山林で7歳の男の子が行方不明になったニュースは世界中で物議を醸しましたが、ここイタリアでも行方不明になった当初から発見・保護に至るまで、国営放送の報道番組で何度か取り上げられていました。遠い国で発生した事件や事故の報道というものは、どうしても本国ほど細かい詳細までは説明してくれません。
日本の諸地域で起きる地震や噴火も、ニュースでは世界地図の日本全体に丸い印が付けられてしまうので、それを見た人は日本全体が災害に見舞われてしまったかと勘違いしてしまう場合もあります。今回の失踪事件についてもこちらのニュースを見ていると、大雑把な報道の内容に疑問を感じる点がいくつかありました。
特に海外のメディアで強調されていたのは「日本におけるしつけ」のあり方で、日本でも沢山の人々に疑問を投げかけた、男児の父親の取ってしまった行動があたかも日本という国の特異性と結びついているかのような伝えられ方がされている印象を受けました。
早速ニュースでこの事件を知ったイタリア人の姑から電話が掛かってきて「もしかして、あんたも子供のときには親からどこかに置いてけぼりにされた事あるの?」と問い質された事からわかるように、イタリアの視聴者の中にはやはりそういう受け取り方をした人もいたのだと思います。
姑の場合はまた、常々日本人の私と息子を見て、イタリア人に比べて愛情表現の足りない親子の接し方が納得いかないと感じている人なので、この機会に日本におけるしつけの実態について確認してみようとも思ったのでしょう。
私はそれでも17歳からイタリアで暮らしていますし、出産もイタリアだったわけで、シングルマザーだったとはいえその育て方は日本の女性より遥かに暑苦しく情熱的だったと確信しています。しかし、姑にはそれでも私の親としての態度には疑問を持ち続けていました。
というのも、そもそもイタリアを訪れた私と母のやりとりを見ていても「なぜ親子なのに抱擁をしないのだ」「なぜもっと愛情を表面に出さないのだ」「なぜもっとコミュニケーションを取らないのだ」と口うるさく指摘してくるくらいですから、朝から晩まで子供の事しか考えずに生きてきた姑にとっては、日本の親子の距離感には何か納得のいかないものを感じ続けているわけです。
なので、北海道の男児の件で電話を掛けたのも、恐らく彼女は私から、日本人にとって今回のようなしつけは当たり前なんだ、という答えを内心で期待していたのかもしれません。「日本でもこれはしつけか虐待なのかで論争になっている」と応えると、姑は「あらそう」と心外さを露わにしていました。
確かに、危険で不条理さに満ちあふれた、決して素敵な楽園とは言い難いこの世の中に生まれた無防備な子供を、家族がしっかりと保守の姿勢で接している欧州の(特に南欧の)子育てに比べて、日本の子育ては少々淡白で間接的だとも言えます。
倫理のあり方も欧州ではキリスト教という宗教がベースになってはいるけど、日本の倫理は概ね宗教ではなく、世間の見解に重点を置いて構築されたものです。だからなのか、見ているとここイタリアでは、日本よりもずっと人前での我儘を放置されている子供が多いですし、かといって親からがみがみ言われている子供も外では殆ど見かけません。
日本では、わりと高い確率で公園やスーパーマーケットなど公共の場で「いけません!」「ダメなの!」「言う事を聞きなさい!」を連発しているお母さんを見かけるのに対して、イタリアでは欲しいものを買ってもらえずダダをこねている子供がいても、親は声も荒げないし、子供の我儘を聞き入れ、挙げ句にはその我儘の戦利品であるお菓子を、レジでお金を払う前に子供が既に袋を開けて食べてしまっていても暗黙していたりします。
電車の中では一等席でも身なりのしっかりした年輩大人が、両隣を気にせず携帯電話で大声でおしゃべりをしているし、通学時間のバスの中の学生の煩さたるや、大声で「だまれーっ!!」と叫びたくなるほど周りを気にしません。
家の中ではご飯の最中には左の腕をテーブルの下に隠すなとか、鼻を啜り上げるなとか、やたらとガミガミうるさい親も、外ではそういった人様の迷惑になっていると思われる行為を子供には指摘しなかったりするわけです。彼らに言わせれば、社会ではいちいちお互いの習慣や風習の齟齬が見えてしまうのは当たり前、それぞれの考え方やしつけられ方の違いによって違和感や不快感が発生した場合は、その場でコミュニケーションを取って、お互い納得がいく様に解決すればいい、というものらしいのです。
なので今回の報道も、森の中で〝石を投げたくらいで〟(これも、報道によっては人や車に対してではなく、単にどこかへ向かって石を投げたとしか伝えられていないものもあった)我が子を森の中に置き去りにする日本のしつけ、というところに焦点を当てた報道になっていたのでしょう。
「しつけ」と「お仕置き」の違いは?
にしても、今回のこの一連の騒動について拾える限りの情報からひとつ気になったのは、置き去りという行為は「しつけ」そのものではなく、要はしつけの理念を拒まれた事に対する「お仕置き」という処置だったのではないか、という点でした。もちろん「お仕置き」もしつけの一形態ではあるわけですが、そもそもしつけというものは俄に、衝動的に起こしてしまう一度きりの行為を意味するものではないと思います。
イタリアの報道では「日本は禅と忍耐の精神に根付いたサムライの国だからしつけ方も一筋縄ではない」と言いたくて仕方無さそうな勢いすら感じましたが、そういうことではないのです。
こちらのいろんな家庭を見ていたって、家の中で悪さをした子供には「お仕置き」としてご飯を一回分食べさせなかったり、携帯電話やゲーム機と取り上げたり、部屋に閉じ込めてしまう親たちもいるわけです。それだって子供によってはトラウマの要素ともなり得る過酷な「お仕置き」です。違いは、それらが外ではなく、家の中で行われる、という事でしょう。危険が渦巻く屋外に小さな子供をひとり置き去りにしたり、放り出す、というのは海外の人にだけでなく、日本人にとってもかなり信じ難い行為ではあります。
私は究極の教育不熱心な親でしたし、自らが奔放な親に育てられたこともあって、自分のしつけに対する理念もあやふやです。とてもじゃないけど、子供に対して説得力を持って「これはこうだからこうするんだ。私の言う事を聞きなさい!」と頭ごなしに発言できるような自信満々な親ではありませんでしたから、「社会ではそういうことをすると、とても嫌がられるみたいだからやめたほうがいいよ」とか「いい加減にしとかないと夜に鬼が現れるよ」など、鬼に責任を押し付けた弱気な言葉を掛けるくらいでした。逆に気がついてみると、親である私が息子から「普通そういうことしないでしょ、止めたほうがいいよ」と指摘されるようになっていたくらいです。
というわけで、しつけに対して偉そうなことを言えた立場では一切ないのですが、私は、しつけとはそもそも子供が自分に取って一番身近な人間のサンプルである親の倫理観や行動パターンを、傍から、毎日観察しながら学び取って身につけていくものなのではないかと思っています。地球上の多くの動物が本能的にそうしているように。
頭ごなしに、ただ「それをやってはいけません!」と怒られても納得できない子供たちもいるでしょうし、そういう時は親も一緒になぜそれがダメなのか、改めて子供と一緒に話し合ったり考えてみるのも必要な場合もあるのではないかと、自分の経験を振り返っても感じることがあります。
「お仕置き」も、そうしなければならなかった理由が単なる親のエゴではなく、人間が属する社会のルールという、もっと大きくて果てしないところにあるのだということを、最終的に子供に判ってもらえなければ、目的が達成したことにならないでしょう。
「お仕置き」は、本質の意味がわかってもらえなければ、単に理不尽で衝動的な精神的暴力になってしまいます。
それにしても、7歳男児が置き去りにされたその場で、親が戻ってくる事を信じてとどまることもせず、そこから立ち去る決意をし、数日間サバイバルをしてたった1人で生き延びようとした、その胸中にはいったいどんな思いがあったのでしょうか。歩きながら、ひとりで何もない場所で夜を過ごしながら、この少年はいったいどんなことを考えていたのでしょう。
「お仕置き」というボーダーから飛び出したそのエネルギーは逞しくもある反面、精神面での消耗率も半端なかったはずです。そんなことも含めてここ数日、そんなことばかり考えて過ごしている私ですが、なぜこの失踪事件が世界でこれほどまで大きく取り上げられたのか、それには親と子のありかた、家族と世間、そして教育やしつけ、というものについて、真っ向から問いかける要素がいろいろと潜んでいたからなのかもしれません。