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10月某日 北イタリア・パドヴァ

イタリアでは、アルコールの飲酒が認められる年齢が日本よりも低いんです。場所によっては子供たちは随分早いうちから、食卓の場でワインを水で薄めたものなどを飲まされたりしますし、私も類に漏れずイタリアへ越した17歳のときからワインは周りから薦められて飲むようになりました。

 

でもイタリア人にとってワインとは基本的に食事の一部分であり、ワインの味を知る事は料理のおいしさのバリエーションも増やす事に繋がりますし、グラス一杯適度のワインならむしろ健康、という見方さえされています。そういえば、うちで100歳近くまで生きた婆さんふたりも、毎日の食卓で少量のワインは欠かさず飲んでいました。

 

私はもともとそれほどお酒に対する特別な嗜好があるわけでもなく、アルコールの分解酵素が弱いせいか、沢山の量を飲まなくてもいつも酷い二日酔いに悩まされてしまうこともあり、基本的には食事中にグラス一杯のビールやワイン以上のお酒は、積極的には飲みません。

 

イタリアで、食事の際に飲む程度のワインも、酔いの気配が感じられる前にはそれ以上飲むのを止めます。でもそれは私に限った事ではなく、少なくとも私の周りのイタリア人にとっては極当たり前の事であり、自らの性格に変化を来すまで飲む、正体を無くすまで飲む、という人は滅多にいません。

 

それは単純に、治安がそれほど良いといえない国では、自分の意識の操作ができなくなるくらい酔っぱらうというのは、もの凄く危険なことだからです。酔いで緊張感や警戒心を必要以上に失うのが怖いわけです。

 

なので日本へ戻って来た時に、夜の電車や道端でたまに酔っぱらった人を見かけると、やはりこの国は他の地域に比べて破格に平和なのだなあ、と実感せずにはいられません。

 

そして、そういう状態の人を見る度に、自分の身体が意志通りにならなくなるまで飲む行為について、日本においてのアルコールが、人々の暮らしにとって欧州とは少し違う意味を持っていることをしみじみ考えさせられてしまいます。

 

しらふであっても、平気で自分の思っている事をどんな時にも堂々と口にできたり、態度で示すのが当たり前とされる国々と違って、場の空気を読む必然性を強いられたり、感じている事を包み隠さず言語化することが許されない日本という社会では、お酒は人間にとってひとつの解放のツールであり、 〝酔い〟は気持ちのたがを外す為の重要なきっかけになっています。沢山飲んで酔っぱらい、普段しないような発言や態度を自分に許し、周りの人に警戒心の無い自分を見てもらう事は、日本人のようなメンタリティの国民にとっては社会に馴染むためにはどうしても必要なことなのかもしれませんが、酔いは先述したように緊張感も警戒心も解いてしまうので、状況によっては大きなリスクを生む場合もあります。

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ストレスのはけ口が不特定多数に向かっている

そして何よりも、お酒の力を借りて開放的になるかどうかは本人が判断することであって、大学のサークル活動や新入歓迎コンパの時のように、相手が酔いつぶれるのを周りが強制するというイニシエーションが未だに普通に為されているのはどうなのだろうと、怒りを覚えるわけです。急性アルコール中毒などで死んでしまうかもしれないような危険な行為を強いるのは、完璧なパワーハラスメントとも言えるでしょう。

 

慶応義塾大学の集団暴行疑惑が物議を醸している最中ですが、そういえば、以前も他の大学の学生がやはりお酒に酔わせた女子学生に乱暴をしたという事件がありました。どちらも高等教育機関の学生たちがしでかした事件というこが人々に更なる衝撃をもたらしましたが、どんなエリート環境の人間であれ、酔わせた相手が無防備になれば、強制的な行為も犯罪ではなく〝同意〟と括れるとでも判断しているようなその態度には、正直呆れるしかありません。

 

飲む事を強制される集いだと判っていながら、そこへ行った本人も悪いのではないかと言う人も中にはいるかもしれませんが、参加を拒めば、それが原因でその人のコミュニティにおける立場が悪くなってしまう原因にもなりかねないところが、日本の、この儀礼におけるタチの悪さとも言えるでしょう。

 

ところで、昨今の日本の若者は全体的にアルコール離れの傾向にあり、以前のように会社でも飲み会やコンパに誘われても無理に参加をしない人が増えていると聞きました。無理飲みを避ける事が可能になってきたということは、つまりこの時代の若い人たちが、思った事を相手に対して率直に言語化できたり、正直な態度で示せるようになってきたからなのかと思えば、決してそういうことではなく、今はインターネットのように、アルコールに変わるストレスの発散方法があるからという見方もできます。

 

つまり、以前ならアルコールを飲むことでしか解決できなかったストレスのはけ口が、例えば匿名で胸中に溜まった毒素を言語化し、不特定多数の人に発信することで鬱憤晴らしをする、というような行為に取って変わってきているということです。

 

匿名とまでいかなくても、SNSなどに普段言葉として口にできないことを書き込み、自分以外の人に自分の考え方や心境を知ってもらったり同調してもらったりすることで、浄化される人が増えているという傾向は確かに感じられます。

 

中にはお酒もネットも駆使して気持ちの浄化を図る人もいますが、実際自分の周辺を見回してみても、言われてみれば、アルコールを飲まない人の方がネットにおける吐露を熱心にやっているような気もします……。

 

ネットでメンタルを解放させるほうが酔っぱらって無防備な自分を曝け出すより、身の危険というリスクを避けられるでしょう。でもそれで鬱憤晴らしのタチが良くなったのかといえば、ネットはネットの凶暴性がありますから、決してそうとも言い切れないでしょう。例えば運動だとか旅だとか、その他の趣味に意識を向けて嫌な気持ちと向かい合わないようにする手段があったとしても、それでは満足がいかず、人に向けて言葉を発信することでしか憂さ晴らしができない、という衝動自体が既に厄介なものとも思えます。

 

反面、言いたい事や感じた事を常に外側に解放させつつも、円滑なコミュニケーションの成立する社会環境を叶えるのが日本ではどれほど難しいことなのか、人はみな根底ではそれを願っているかもしれないのにと思うと、何やら深く考え込んでしまうのでありました。

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