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1月某日 道後温泉

皆様、新年あけましておめでとうございます。古今東西どこもかしこも何かと目まぐるしく変化するこのご時世、様々な風習や習慣が忘れ去られてゆく中で、私はイタリアではクリスマスを、そして日本では年越しを、今年も律儀に家族と過ごしてまいりました。

 

自分の周りには、移動も大混雑で交通運賃も高くつくような時期にわざわざ実家には戻らないと決めている友人もいますし、初詣もおせち料理も面倒だから省く、という人もいます。しかしある統計で、私に限らず9割の日本の人たちは某か、たとえどんなに忙しくても、経済的なゆとりがなくても、年末年始にはしっかり〝お正月らしいこと〟をして過ごしていると知って少し驚きました。

 

イタリアでも、クリスマスは家族のみで厳かに過ごし、翌日は親戚が訪ねてきて大規模な食事会を催したり、こちらから逆に疎遠になっている親戚を訪ねる、という習慣は頑に守り続けられています。たとえばミラノのような、イタリア全体の経済を背負って立つ北部の経済都市であれば、さすがにクリスマスをしない人もいるのではないか、とも思ったのですが、イタリア人は根本的に家族優先主義。しかも家族が何よりも大事という彼らの倫理観が国教であるカトリック仕込みであることを踏まえると、親戚や知人に渡す山のようなプレゼントを買い込むところから、クリスマス期間のごちそう食べ過ぎによる体重増加という結果に至るまで、この行事の構造も簡単に生活から排除される事はなさそうです。

 

そんなわけで、私にとっての年末年始は毎年、イタリアではクリスマス行事の準備に大掃除、それが終わってすぐに移動した日本では元日前の実家の大掃除に明け暮れるという、1年の中でも最も身体を酷使する大労働期間でもあるのでした。

 

私はどうしてもやるべきことを面倒だからと端折って次の年を迎える〝やり残し感〟というものが受け付けられない性格でして(多分そういう方は沢山いることでしょう)、単純にその思いに突き動かされて習慣に従っている、という感覚のほうが正しいかもしれません。様々な事柄には適当でいい加減だというのに、新しい年明けだけは何としてもまっさらな心で迎えたい、という気持ちはどうしても譲れないのです。

 

ところが1年の老廃物を徹底的に取り払おうと躍起になったばかりに、結局新年はすっかりボロボロの有様で迎える事になってしまうのですが……。

 

そんな私の毎年の過剰労働へのご褒美なのでしょうか。実は昨年の12月、突然、とあるNHKの地方局から〝温泉地取材〟というちょっとしたご褒美的仕事が舞い込んできました。原稿など、他にやるべき仕事がある時期ではありましたが、場所が四国・松山の『道後温泉』と知った瞬間、これは行くしかない、やるしかないと決意。日本でも最も有名な温泉地であり、三大古湯のひとつとくれば、温泉と風呂を心底から愛する私に断る術はありません。しかも道後温泉は、『テルマエ・ロマエ』を連載していたときからずっと気になり続けていたのに、時間的な意味も含めてなかなか訪れるチャンスのなかった場所でもありました。正月の掃除疲れを癒す時間を返上してでも、この取材は受けよう! という気持ちになったわけです。

 

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「100年経ってもまねの出来ないものをつくった」イカした大工職人

そういえば、2年程前NHK Eテレの『日曜美術館』というとても真面目な美術番組の撮影で、世界的大版画家である棟方志功の故郷を訪ねるために青森へ行った私は、八甲田山麓の酸ヶ湯温泉の千人風呂という大混浴場で、素っ裸のおっさんたちと風呂につかっているというシーンで番組を締めくくった経験があります。

 

公共放送の教育番組枠でもある硬派な美術番組だというのに、爺さんの尻がカメラの前を横行するその向こう側で悠長に風呂に浸かる私の姿の異様さは、見ていた人には「なんなのこの人、とうとう男湯に入るようになったの!?」という物議を醸したようですが、その湯は棟方志功のインスピレーションの源だったことを思えば仕方がありません。それに、私は何を隠そう、風呂リポーターとしてテレビカメラの前で入浴するのを職業としていた時期も長かったので、実際入浴の撮影にそれほど抵抗はないのです。

 

ですから今回も風呂撮影を予想しつつ早速松山へ向かったわけですが、結局入浴取材はありませんでした。今回は、重要文化財である道後温泉本館の建造物を手がけた明治時代の大工職人に焦点をあてるというもので、古代ローマの浴場文化と対比しながら興味深い考察を、現地の古建築研究をされている建築士の方とたくさんしてまいりました。

 

道後温泉といえば、夏目漱石の小説『坊ちゃん』のいくつもの実写版や、宮崎駿氏の『千と千尋の神隠し』の湯屋のモデルになったりと、その印象的な佇まいは多くの人が知る所でしょうけれど、今や日本の温泉文化の代表的建物を造った人については、殆ど知られてはいないと思います。

 

なんでも、古くから既にそこにあった温泉の建造物を、今のようなスタイルに建て替えようと思い立った当時の町長を含むプロジェクトチームの一員に、城大工の坂本又八郎という人物がいたそうで、この人については資料も写真も殆ど残っておらず、他の建造物も戦争などによって消失してしまい、詳しい事は何も解らないのだそうです。

 

江戸時代から城大工として活躍していた又八郎は、明治になってからは活躍の場がすっかり減ってしまいましたが、文明開化という時代の流れに乗ってこの道後温泉本館改築プロジェクトで、大胆で斬新な技法を試みたのでした。もちろんそれまでのオーソドックスで重厚な和風建築の技巧は生かしておきながら、塔屋と呼ばれる屋根の上についた部屋の四方に赤い輸入品のガラスを使ったり、天井の内部構造をそれまでの洋風の組み方にしたりと、明治のモダン嗜好をふんだんに取り入れたその佇まいは、多くの人々を驚かせたと言います。道後温泉本館は、まさに明治時代の文化革命というものがどれだけ多元的でエネルギッシュなものだったのかを伺わせてくれる、貴重な資料と言えるかもしれません。

 

又八郎という人は、保守的な考えや箍(たが)を外すパワーを全開させつつも、仕事の減った弟子たちの仕事を得るために、頭を下げて回ったと言われるほど弟子思いで謙虚な人だったとも言い伝えられているようです。話を聞きながら私はなんとなくですけども、フィレンツェ・ルネサンスの巨匠ラファエロを思い出してしまいました。この人も新たな事へのチャレンジを惜しまない多才な表現者でありながら弟子を慈しみ、働き過ぎも要因となって亡くなった人物です。しかし、やはり何事に対しても出し惜しむことのない力を注いだ結果が、今も多くの人をその作品によって感動させるという展開を生みました。

 

「100年経ってもまねの出来ないものをつくる。それで人が集まり、町が潤い、百姓や職人の暮らしも良くなる」という、プロジェクトチームのひとりだった町長の考え方も、遥か昔にローマの皇帝が民衆のために立派な公衆浴場をつくる時に唱えていたコンセプトと全く変わりはありません。浴場文化を愛する日本と古代ローマの共通点は尽きる事がなさそうです。

 

そんなわけで、初めての道後温泉で古のイカした職人又八郎を思い浮かべながら、新年への志と気合いを、掛け流しの透明な湯にまったりと浸りながら蓄えたのでありました。

 

ひとつだけ残念だったのは、松山に来てみたかったもうひとつの場所、『伊丹十三記念館』へ行く時間が取れなかったこと。まあ、仕事での滞在ですから時間が取れなくてもそれは当然なのですが、松山名物で伊丹十三氏とも縁のある一六タルトを調達し、高松へ向かうバス(松山から羽田の便が取れなかった為)の車窓をぼんやりと眺めていたところ、突然視界に真っ黒な伊丹氏の記念館が現れ、「ああ、あそこに行きたい!」と思わず声を漏らしてしまった、諦めの悪い私でありました。

 

何はともあれ、古き良き温泉で幕を開けた2017年、今年もみなさまどうぞ宜しく御願い致します。

 

(この道後温泉についてのテレビ番組は1月20日〔金〕NHK四国でのみ放送される予定です)

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