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3月某日 東京

子役の少女の過重労働が某週刊誌で取り上げられている記事を読んで、直ぐに頭に思い浮かんだのは2つのことでした。ひとつは今から約6年前にイタリアのローマでクランク・インした私の漫画作品『テルマエ・ロマエ』の実写版撮影現場について。もう1つは、中東やフィリピン、南米で出会った小さな労働者たちの姿。

 

まずは映画版『テルマエ・ロマエ』の撮影現場についてですが、クランク・インした2011年3月11日、私は当時暮らしていたシカゴから撮影に立ち会うためにロケ地のローマに飛びました。フィウミチーノ空港に到着した時、空港内のテレビ映像全てにどこかで発生した大津波と大火事が映し出されているのがやたらと視界に入ってきたのですが、それが日本で起った大災害だということを、タクシーに乗ってから運転手に教えてもらって初めて知りました。

 

その2日前に既にローマ入りしていた阿部寛さんや北村一輝さんなどのキャストや制作チームも、遠く離れた祖国での大惨事を知るも「とにかく今帰るわけにはいかない」という覚悟のもと、撮影は予定通りに行われる事になったのです。

 

ローマの撮影所チネチッタのイタリア撮影チームと千人近いエキストラの皆さんも、出演者と制作チームの故郷が大変な事態になっているにもかかわらず、「こういう時だからこそ、日本国民の一人一人が皆元気になれる作品を作るしかない!」と気合いを入れている様子に胸が熱くなったらしく、「こっちも俄然全力で協力するぜ!」という姿勢を見せてくれました。

 

撮影は朝の9時に開始。普段ならまとまった行動や団結が苦手なイタリア人も、今回の撮影に及んでは皆古代ローマ人を演じる日本人たちの妥協の無い演技と情熱に触発されて、士気も上がり続けている状態で進められていました。

 

しかし、撮影がどんなに画期的な盛り上がりを見せていようと、イタリアではお昼にはしっかり昼食時間がもうけられるので、その時にはいったん休憩となります。イタリアの国民には労働法のあり方が一般認識として当たり前に浸透しており、誰もそれに逆らう人はいません。7日目には人は休息を取るべし、という教義を唱えるキリスト教国家の国民であり、労働に関してはかつて一斉を風靡したイタリア共産党時代の人権意識への根強い支持も加わって、イタリア人は“人間が働く”ということに関しては、とにかく曖昧さを許しません。「何となく今までもそうだったし、皆もそういうものだと思ってる」「労働時間オーバーしても仕方ないよね、残業するしかないよね」というのは、ほぼあの国民たちには有り得ない解釈と言っていいでしょう。

 

ですから私のような漫画という創作を職業にしている人間の、時間に不規則な仕事のしかたというのは、イタリア人にとっては許されざるものなのです。どんなに気持ちが乗っていても、ご飯の時は家族と一緒に、そして夕食の後は例えどんなに締め切りが間近に迫っていようと、不安が募ってたまらなくなっても、決して働かない、働いて周りの人を心配させてはいけない、という考え方が生活の鉄則になっているのです。

 

そんなわけで、ローマでの撮影も、例えどんなに絶好調に進んでいようと、その日のノルマに達成していなかろうと、18時にはイタリア人は皆仕事から解放されなければなりません。私は撮影が行われていた7日間、毎晩キャスト全員と夕食を共にしましたが、大体出演者がロケ先で毎日全員一緒にご飯を食べるなんて、そんなことは日本では有り得ないと皆口々に言っていたのを思い出します。規則正しい生活で翌日の現場では出演者もスタッフも全員元気いっぱい、疲労による老廃物やストレスなんて微塵もたまっていない様子で、いきいきと撮影に挑んでいました。

 

私はその後、日本における『テルマエ・ロマエ』の撮影現場にも度々お邪魔をしましたが、確かに日本ではローマで体験したような、皆で一緒に集まって夕食をとったりその辺を散歩したりすることは叶いません。昼夜関係なく、真夜中や明け方にまで時間が延長しようと容赦なく進められる撮影は見ているだけでもイタリアの何倍も大変そうでしたし、両国の人々の労働への意識の違いというものを考えざるを得ませんでした。

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子供が働く意味も、国によって違う

脳裏によぎった2つ目の件というのは、子供の就労についてです。かつて暮らしていたシリアでは、街にある市場などへ行くとまだ小学生くらいの子供が大きな荷物を運んだりして、店を出している家族を手伝っている光景をよく見かけることがありました。日本でも戦前戦後にはけっこう当たり前に見られたことかもしれませんが、私は自分が生まれてからそれまで小さな子供が大人に混ざって働いている、という姿をあまり見かけることがなかったので、一生懸命に商品の入った段ボールを運んだり、荷物を積んだロバを引っ張って歩いていたり、店先の商品を並べている子供を目のあたりにしたときは感慨深くなってしまいました。

 

ですが、この子供たちは生きて行くために一生懸命働いている家族や親の姿を見て育っているわけで、自分がその家族の一員として生活のために力を貸すのは当たり前のことだと解釈しています。親も、小さいうちから自分たちの子供が社会で働くということが、学校では学べないもうひとつの大事な教育であると判断しているのでしょう。商売をやっている人々にとって、自分たちの子供がそれを手伝ってくれるというのはひとつのシンボリックな形式であり、子供の労力による経済的な得を考えているわけではないはずです。

 

フィリピンのマニラでは、ゴミ山の中から業者に売れそうなものを集めている小さな子供たちを見て衝撃を受けましたが、彼らが暮らすスラムを訪れた時に、端から見ればそんな過酷である種の虐待とも取れる生活を全く当たり前のものとして受け入れ、明るく元気いっぱいに生きている子供たちの様子に胸を打たれた事がありました。彼らはシリアの親の商売を手伝う子供たちよりも、もっとシビアな状況下に置かれています。ですが、周りの誰しもがこの経済的な不条理な状態と格闘しながら生きているのを見ながら育っているからなのか、自分たちのやっていることに対して澱みの無い一生懸命さには、見ていて清々しいものさえ感じてしまいました。

 

今の時代、小さいうちから大人に混じって働くという生き方を強いられている子供は、先進国の目でみれば子供への虐待と判断されてしまうでしょう。ですが、ゴミを抱えて歩いている親子や、バラック小屋で家族と一緒に食事の用意をしている子供を見ていると、可哀想と思うよりも、彼らのその大人を凌ぐ逞しさや真剣さに対して羨望のような、尊んだ気持ちが涌いてくるのでした。

 

今回の未成年の過重労働の場合ですが、シリアやフィリピンのような社会的な環境や貧困という境遇で早いうちから就労する子供たちと違って、“子役”というのが先に綴ったような、“創作”という規定の労働基準の枠から外れた職業が、問題の要になっているように思われます。

 

漫画家でも映画監督でも役者でも大人のクリエイターでさえあれば、良い作品を生む為にどんなに睡眠時間を削っても仕事に打ち込む意欲が優先順位にもなるでしょうが、子供はまだそういった自らの職業に対する芸術的または職人的意識も固まっていないはずです。ちなみに子役の拘束に厳しいアメリカでは既に1960年代から、人気ドラマの子役(赤ちゃんを含む)は双子の起用が当然とされ、労働量が嵩まないように分担させて撮影するという配慮が既になされていたそうです。

 

こういった世界には先述したイタリアのように、大人に対してですら“創作という口実でならいくらでも好きなだけ働いていいというわけではない。まず自らの身体とメンタルを労って人間らしい生き方を優先せよ!”という倫理が沁み込んだ国もあるわけですし、それを思うと、どんなにそれが子供にとって楽しいと感じられる仕事であったとしても、眠る時間も削って大人の都合で夜中まで働かせられるのは、相当に辛かったにちがいありません。

 

せっかく才能があっても、こんなことがあれば俳優という職業にある種のトラウマも発生してしまうでしょうし、子供として健やかに育つべき大切な感性もどこかが歪んでしまう可能性も十分にあります。

 

生き延びるために働かざるを得ないフィリピンや貧しい国々の子供たちが、それでも満面で微笑むことができるくらい元気いっぱいだったことを思い出すと、日本では労働基準法でも、親や学校長の承諾さえあれば例外が認められている、子役など子どもの仕事のあり方について、考え込まずにはいられなくなってしまったのでした。

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