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5月某日 北イタリア・パドヴァ

 

先日、NHKの『あさイチ』というテレビ番組で、母の日のプレゼントとしておすすめの本を何冊か紹介したのですが、そのうちの一冊が『地球家族―世界30か国のふつうの暮らし』という写真集でした。日本で翻訳されたものが出版されたのは1994年ですから、丁度私がイタリアで生んだ子供を日本に連れて帰って来ていた頃になりますが、この本の存在を知って以来、今日に至るまで、私にとっては贈り物として欠かせない書籍になっています。

 

テレビで紹介してしまった為に、その日のうちにネット書店などでは売り切れてしまい、現在では入手困難な状態になっているようですが、重版が決まり、増刷中とのこと。今までも、新聞や講演会など、書籍の紹介の機会があるたびに私はこの本を取り上げてきたのですが、一体『地球家族』の何がそこまで私を虜にしたのかというと、とにかく世界30カ国の“中流”とカテゴライズされるご家庭の家の中にあるものを全て外に出してみせて下さい、という尋常ではない企画の主旨です。

 

原書のタイトルは『Material World』。要するに“モノ”に囲まれて生きる我々人間の暮らしという概念になりますが、一般家庭におけるそれらのモノの種類や数は、ある意味その家族の暮らす国の経済や社会情勢の指標となります。この本で見る限り、アフリカのマリ共和国やインド、ハイチといった経済的に困窮している国の一般の家の僅かなモノの種類や数と比べて、米国や日本などの先進国の一般の家がありとあらゆるモノで溢れている有様は一目瞭然です。

 

特に数えるくらいしかモノのないインドの一家と、モノに埋もれている日本の家族のポートレートの違いは目を見張るでしょう。インドの撮影は準備に恐らく1時間もかからなかったかもしれませんが、日本の家はお風呂の椅子や手桶からエレクトーン、食器といった、用途不明確なものを含む凄まじき量のモノを外に出して、再びまた家の中にしまうまで、一体どれくらいの時間を要したのか、想像しただけでも気が遠くなります。

 

中東の石油産出国・クウェートの一般家庭なぞ、中流家庭でありながらも数台ある自家用車は全て高級車。25人掛けのソファ、巨大絨毯、大理石の便器(これはさすがに外に出てませんが)など大富豪にしか思えません。とにかく、この本には、世界における〝中流”のあり方の違いや、周囲と自分との比較がいかにナンセンスであるのかを痛感させてくれる効果があります。それともうひとつ興味深いのは、様々な家庭における物質をあれこれしみじみ見ているうちに、貨幣価値というものに対してとても客観的になれるところかもしれません。

 

今、私が暮らしているイタリアの家には、実は必要最低限度の家具や家電しか置いていません。もしまたどこかへ引っ越す事になった場合、モノがどれだけ邪魔になるかということを、がっちり経験してきたからでしょう。

 

イタリア―日本―エジプト―シリア―ポルトガル―アメリカ―イタリアという国をまたいだ引っ越しは、正直物質を詰めたり出したりする作業以外にも、税関手続きという面倒臭さを兼ねています。コンテナは届いているのに、書類の確認が追いつかず、全てを受け取るまで3カ月を要した国もありました。

 

はっきり言って、もうモノの移動のために頑張るのは懲り懲りです。死ぬ時には自分も周りにも迷惑を掛けないよう、できるだけ身一つでいようと思うようになってから、あれこれ何かが欲しい、と思うことも殆どなくなってきました。物質を調達する出費欲がこんなにもすんなり消失しつつあるのは、基本的に私が買い物に出かけるのが面倒臭い人間であることと、若い時に散財する彼氏を持ったお陰で酷い貧乏生活を強いられた経験、そして物欲抑制雑誌『暮しの手帖』の熱烈な読者だった母からの影響があるからかもしれません。

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お金と仲良くし過ぎない人生がいい

ちなみに私は自分がかなりハイレベルな貧乏経験者であることを方々で語ったり書いたりしてきていますが、中には「とはいえ、ヤマザキさんはお母さんが音楽家という時点でもう何かが違う」とか「海外に留学してたんだから本当の貧乏じゃない」と思っている方もいるでしょう。たしかに母はお嬢様でした。しかし、私は違います。お金に苦労をしたことのない母親にとっては、バイオリンやピアノなどの楽器を子供に習わせることも、若いうちから海外に出すことも、彼女の意識においては経済力とはあまり関連性のない事柄でした。何より母はお金がないという現象を深刻に捉えない人だったのです。

 

しかし、その彼女の素っ頓狂さのとばっちりを、私は全身全霊で受ける羽目になります。イタリアでは暮らしていた家のインフラが全て料金未払いによって止められてしまったり、切符を買うお金がなくてキセル乗車で捕まったり、駅で寝泊まりしたり、周辺の店にツケをしまくったり、ツレの借金地獄に道連れにされたり、事業が倒産したり……。青春を謳歌するべき20代の私は、より取りみどりな貧乏素材に囲まれた生活を味わってきました。

 

しかし、私の母にとってそれらの話は全てフィクションみたいなもので、苦境を語っていると「なんだか楽しそうじゃない」とまで言われたことがあります。「じゃあ、自分がやってみろよ!」と思うのですが、考えてみたら彼女は若い時に親に勘当されて、楽器だけを手に北海道に一人で移住したときも、隙間風の入る板壁のボロ屋でろくに食べるものもない暮らしを「楽しかった」と笑い話に昇華できるおめでたい人です。

 

私が小学生だったころ、持たされたお弁当箱の中身が砂糖バターの塗られた食パン2枚ということもありましたし、2つに割った茹でトウモロコシが並べて入っていただけのこともありました。母に対して抗議しても「え?だって砂糖バターのパン、あんなに美味しいのに何がいけないの」などと不思議そうに問い返されてしまうのです。全く周囲の目を気にせず、そういうことを毅然とやりのけてしまうので、お金にしてみれば、「どうしても必要だ!」とすがりついて来ない母は、かなり手強い人間だったと言えるでしょう。

 

パドヴァの街で、難民船に乗って地中海を渡りイタリアに命からがら辿り着いたというアフリカの青年と最近親しくなりましたが、彼らの一人はナイジェリア出身で、一度イタリアへの上陸に失敗したにもかかわらず2度目のチャレンジでやっと難民登録が叶ったのだそうです。船の中では高熱が出て死にかけもしたけど、そこまでしても欧州に渡りたくなるほど、ナイジェリアの貧困が凄まじかったと言います。

 

頑張ってイタリアで少しでもお金を稼いで、アフリカにいる家族を呼び寄せるのが彼の目的だそうですが、「資本主義の環境で貧乏をすると相当に苦しいよ」と、自分の経験を振り返りながら言うと「君にはナイジェリアの貧困がわからないんだよ」と首を振られてしまいました。彼は今、通りで物乞いをしたり、使い捨てライターやティッシュを売って日銭を稼いでいますが、まだその生き方の方がナイジェリアでの暮らしよりも遥かにマシなのだと笑っていました。彼もまた別の角度から、お金と自分の生き方に距離を置いた考え方をしている人と言えるでしょう。

 

日本にもうちの母のような特異な例の人もいれば、アフリカの中流家庭で生まれても限界を感じて国を離れる人もいます。ただ、やはりお金というものはあまり仲良くし過ぎないで、時々突き放した位置から観察してみることも必要かもしれません。

 

『地球家族』はそんな時、とても役立ってくれる書籍と言えるでしょう。重版が出来たら是非皆さんも手に取ってみてください。日々の生活に対して、かなり大らかな気持ちになれるはずですよ。

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