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2月某日 東京

 

ここのところ、銀座の公立小学校の“高級ブランド標準服騒動”がメディアを賑わせていますが、制服といえば、思い起こせば私がイタリアへ留学する前に通っていた某ミッションスクールも、とある日本の有名女性デザイナーが手がけたものでした。でもそれを知ったのは学校に通うようになって暫くしてからのこと。まあ、言われてみれば確かに当時の制服のスタイルにしてはちょっと変わってはいたけれど、そのデザイナーさんの作る洋服は当時のティーンエイジャーの嗜好性とは縁遠く、基本的には大人の女性向けのブランドでもありました。だから、その事実が分かったところで特別嬉しいとか、有り難いという感じもありませんでした。

 

それより何より、母子家庭だった私にとっては、その制服一式(セーター、レインコート、冬用コート、靴下、ストッキング、靴等を含む)に掛かる高額な費用を母が頑張って捻出しなければならないことが、何より申し訳なくて仕方がありませんでした。しかも私は組織に帰属をするのが大嫌いな破天荒な子供で、もともと制服自体にシンパシーを感じてはいなかったから、尚更です。

 

冬用のコートを新調しなければならなくなったある日のこと。私は学校指定のAラインのお姫様デザインに大きな違和感を感じ、デパートから専用の布地だけを購入すると、それを仕立て屋さんに持っていって、この学校の1960年代のコートと同じデザインにしてくれと注文しました。数週間後に出来上がったそのコートは、年齢も服装も選ばない、いつでもどこでも着られそうな普遍性があり、高いお金を払った分、いつまでも着られると安心をしたものでした。

 

ところがある朝、通学路で女性教師に呼び止められ「ヤマザキさん、そのコート、形が指定と違うじゃない? どうしたの?」と怖い顔で言及されました。そのまま教員室に呼び出された私は数名の教員から「なぜあなたはいつも他の人と同じにできないの? なぜわざわざ他のみんなと違う様にするの? そもそもこのコートは有名なデザイナーさんがこの学校の為に、わざわざデザインしてくれたものなのよ!」と散々叱られたのです。

 

「わざわざ違うようにしているんじゃなくて、人はもともと皆違うからその通りにしているだけです。それこのデザイナーのコートは私に似合いません」と答えた時の、女性教師の真っ赤になった顔が忘れられません。それに、学校側がいくらその制服に強い思い入れがあっても、それと同様の思い入れを生徒にも持てというのは無理な話だろうとか、はっきり言ってそのデザイナー好きでもなんでもないし、と感じながら憤る教師の顔を眺めていました。幸いにもその数ヵ月後、私は学校を辞めてイタリアの美術学校に留学したので、またそのコートでガミガミ言われることはありませんでした。

 

イタリアに留学した私はそのコートを10年以上にわたって着続けました。貧乏だったので衣類をあれこれ買うお金がなかったこともありますが、質のいい生地にしっかりと手作りで縫製してもらったコートはやはり頑丈で、60年代風のフォルムも流行を選ばず、留学先の学校の仲間たちからも「そのコート素敵ね、あなたのお母さんのビンテージ?」と褒められたこともありました。あの時、確かに物議を醸しはしたけど、長く愛着を持てる自分仕様のコートを作ったことに後悔はありません。

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銀座というより懐かしのバブルの空気感

今回の銀座の公立小学校のアルマーニ標準服騒動で、私はこうした自分の過去のことを思い出したわけですが、この件について何に一番違和感を感じたかといえば、それは標準服のコストの高さもさることながら、銀座という土地柄にアルマーニというブランドを選んだ校長先生の言い分かもしれません。

 

バブル期の日本じゃあるまいし、正直アルマーニが銀座的だと捉える人が今の日本にどれだけいるのでしょうか。

 

しかも後の一部メディアの報道によれば、校長先生は別にアルマーニにこだわりがあったわけでもなく、シャネルやエルメスやバーバリーにも掛けあったという情報を聞いて、さすがに呆れました。それが本当なら、銀座にある高級ブランドだったら何でもいいということです。エルメスやシャネルやバーバリーとこれらのブランドを一括りにしているけど、それぞれのブランドには、それぞれの歴史と方向性があって、それなりの経済力のある人が、自分の嗜好性や個性にマッチングするものを吟味して選ぶことを考慮して製品が作られているわけです。なのに、そういったブランドの特色をろくに把握もせず「外国の高級メーカーだったら何でもいい」的に小学生の標準服のオーダーを掛け合ったのだとしたら、ブランドに対してもその態度はちょっと失礼ではなかろうか、と思ってしまいます。

 

なにより、こうした“個人の経済力誇示効力”を持ったブランド服が醸し出すのは、懐かしバブルの空気感であって、決して銀座そのものの地域性だとは思えません。

 

私はふと東京オリンピックの国立競技場建設騒ぎを、思い出していました。日本のような大借金を抱えた国が、にわか「先進国である日本らしさ」を誇示するために立派な建物を造る。その無茶ぶり感がどこからか漏れ出てしまうと“かっこよさ”はたちまち単なる“痛々しさ”以外の何ものでもなくなります。国立競技場も、文化の歴史の厚みを持った先進国だからこそ昔のオリンピックで使った建物をそのままリフォームして大切に使うことにした、という方向性を世界に向けて発信したほうが、よっぽど国としての株を上げたんじゃないかと思うわけです。日本の有様はもう十分すぎる程テクノロジーが発達してモダンなのだから、それくらいのコントラストがあったほうが、確実にインパクトがあると思うのです。

 

というわけで、今回の銀座の公立小学校も、高級ブランド店が立ち並ぶ場所だからこそ、大きく経済が動く場所だからこそ、そこに通う子供たちの気負わない自然なシンプルさが逆に素敵なんじゃないだろうかと感じた次第。

 

でもどうしても、どうしても銀座らしさを意識したい! というのだったら、どうせ高いお金を親に払わせることになるのだし、それならアルマーニのような西欧のブランドではなく、地元に古くからある仕立屋さんに掛け合ってみれば良かったんじゃないでしょうか。

 

先日たまたま『銀座百点』という冊子の対談でご一緒した美術評論家の山田五郎さんと、「銀座の空気の成分は、古くからこの地域を支えてきた職人たちの気骨さと誇りで出来ているのではないか」という話題になりました。アメリカに長く暮らしていた祖父は、生前、銀座の老舗時計店である天賞堂の時計を愛用していましたが、外国ものよりやっぱりこれがいいよ、とただならぬ愛着を持っていたのを覚えています。それが私の頭の中にある銀座のイメージなので、今回の校長先生のおっしゃるところの「銀座らしさ」とは違います。そしてその校長先生が思う所の“銀座らしさ”を、子供たちに一方的に押し付けるのはやはりどうも納得がいきません。さらに“銀座らしさ”を親たちが当然のように受け入れ、高い出費をしてくれると思っていたのだとしたら、やっぱりまだ校長先生ご自身がバブル時代から脱皮できていないのかもしれません。

 

ブランド制服には前述したような忘れ難い思い出があるせいか、あれこれ考えを執拗に巡らせてしまうのでした。