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2月某日 東京

 

日本勢が大活躍だった平昌オリンピックですが、閉幕式も毎回どんどん斬新な演出になっていくのには目を見張ります。さすがテクノロジー産業が盛んな国ならでは。次回の開催地・北京に五輪の旗が渡されるのを見ながら、いつも通り「もしこんな現代のオリンピックの有様を、古代のオリンピック選手が見たらなんと思うのであろう」という妄想が頭をよぎりました。

 

まさか自分たちの生み出した祭事がこんな凄いことになる日が未来にあろうとは、想像すらしなかったでしょう。ましてや冬期オリンピックなんて当時は存在しないですし、種目も不思議な装置や器具を使った、古代の人にとっては意味不明のものばかりですから、びっくり仰天することは間違いありません。そしてなにより昨今の人間の限界知らずに見える運動能力の進化に対しては、熱い感動を覚えることでしょう。

 

選手たちの運動能力の発達は勿論それまでの並みならぬトレーニングの結果であり、精神的葛藤も含めて大変な思いを経て来た選手たちも沢山いたはずです。

 

スピードスケート女子500mで小平奈緒選手のタイムを越えられなかった韓国のイ・サンファ選手が、結果が判った後に思わず泣いてしまったのは悔しさからではなく、それまでの重圧からやっと解放された為だと答えていたのを知って、思わずもらい泣きをしそうになりました。

 

メダルに届かず、思う様な結果を出せなかった自分に涙する選手は沢山います。私たち観衆はそんなシーンを見るとつい「そうか、よほど悔しかったんだな」と単純に彼らの心情を処理しそうになりますが、思い通りの結果を出せなかった選手の涙がそんなに短絡的なものではないということを、彼女がしっかり言葉で伝えてくれたことにホッとしました。

 

やるべきことを終えて閉会式の会場に入場してくる各国の選手たちの表情は、様々です。イ・サンファ選手のようにプレッシャーからの解放に天真爛漫な笑みを浮かべてはしゃいでいる選手の顔を見ると「ご苦労様、とりあえず終ってよかったですね」と労いの言葉をかけたくなります。かたや、欧米の選手の明るさは、またそれとも違います。まるで大きなパーティーのイベントか、屋外ステージで行われる有名ミュージシャンのライブにでも参加しているようなはしゃぎっぷり。

 

オリンピックというイベントの捉え方は様々ですけど、彼らを見ているとスポーツは決して人生の全てではなく、生きる上での楽しみのひとつであり、 競技に挑む様子を見ていても、“自国の為に、期待のために頑張る!”という重圧感のハンデも最初からそれほどなかったように見受けられます。選手の中には勿論プロを生業としている人たちもいるでしょうけど、他に職業を持っていたり、学生さんだったり、スポーツ以外にやるべきことをしている人も沢山いるからなのでしょう。

 

どちらかというと、やはりアジア系の選手は日本も含め、どこか皆そうした重圧感からの解放オーラが立ちこめているのに対し、欧米の選手団には同じような雰囲気が感じられません。因にイタリアの私の家族や知人などは、殆ど誰ひとりとして今回のオリンピックを見ていませんでしたし、そもそも報道局自体もそれほど視聴を強く煽る形での放映はしていません。これは、彼らにとってどんな競技よりも重要なサッカーの試合でも同じことが言えます。イタリア人というと誰もが熱狂的なサッカーファンのように思われがちですが、実際はW杯の中継ですら「まあ見たい人は見れば」というスタンスなのです。

 

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他国のメディアはシリアへの無慈悲な空爆をトピックとして報道していたが…… 

極端な話かもしれませんが、今回の平昌オリンピックの最中に、実はまたしても私が暮らしていたシリアのダマスカス近郊で、国民にとっては不条理としか言いようのない無慈悲な空爆があり、沢山の子供たちを含む死者が出ました。各国のメディアはどこもこの空爆を報道のトピックとして取り上げていたのに対し、日本ではオリンピックがメインニュースを占めていて、この恐ろしい空爆の報道は申し訳程度。欧州のメディアではオリンピックはあくまで二の次三の次の報道であり、気になる人は詳しい記事を見て下さい、という程度のアプローチです。日本のメディアのように、オリンピックに感心がない人にも感心を強制するような圧力はありません。

 

かつてイタリアのトリノで冬期オリンピックが開催されていた期間ですら、それほど人々の間でオリンピックは話題になっていませんでしたし、テレビに食いついて競技を見ているような人もいませんでした。出場選手のそれぞれのドラマを演出するようなドキュメンタリー番組すらありませんから、そもそも人々が特定の選手に特定の思いを寄せることは、余程でない限りありません。

 

だからなのでしょう“国民の多くが自分の結果を注目している……”というプレッシャーを過剰に背負っていない国の選手たちには、最初から風通しの良さというか、気楽さがあります。彼らの多くにとってオリンピック出場はあくまで自分たちの人生における、ちょっと特別な経験のひとつであり、楽しいイベントであり、自分の人生における全てではないのでしょう。

 

ただし、そういった選手の競技に比べ“国民の期待にこたえるため”“自分との戦い”という意識が高い選手の競技は、やはり圧倒的にドラマチックです。

 

私たちは、彼らが期待というプレッシャーを背負いながらも、観衆を、人々を感動させたいと思って競技に挑んでいる事も知っているので、彼らの勝敗に動かされる感情もまた大きくなります。まっしぐらな選手たちにはプロフェッショナルとしての崇高さがありますし、観客を豊かな気持ちにさせる優れたエンターテインメント性も備えています。

 

古代ギリシャで行われていたオリンピック競技会の概念や性質を踏襲しているのは、どちらかといえばこうしたプレッシャーを背負いながらも全身全霊で競技に挑む選手です。国の期待という重圧感を背負いながらも、勝利という結果によって人間の解放感と自由を演出してくれる選手に比べると、気楽なノリのように見える選手には、それほど感動を覚えられなかったかもしれません。というか、当時はそんな選手はまず運動に対する姿勢や根性を叩き直されることでしょう。

 

前置きは長くなりましたがーー。

 

毎度各国で開催されるそんなオリンピックの様子を見ながら、あれこれ勝手に古代ギリシャと昨今のオリンピックのあり方を無意識に比較している私ですが、そんな古代と現代(といっても昭和)の比較オリンピック論的連載漫画を、この3月20日発売の『グランドジャンプ』(集英社)から始めることになりました。

 

何年も前から企画が上がってはいたものの、忙しい上に基本的に運動嫌いなのでなかなかエンジンが掛からずスタートさせられなかった作品ですが、運動嫌いだからこそ客観的に捉えられる、オリンピックという一大イベントへの感慨をお笑い漫画という形で纏めてみました。

 

今連載中の古代ローマ博物学アドヴェンチャー漫画『プリニウス』ともまた指向性の違う、ちょっとばかばかしいコメディものですので、2年後の東京オリンピック開催も踏まえてこれはこれで楽しんで頂けるように頑張ります。