それじゃ、あまりにもったいなさすぎる!
仏教のエッセンスが詰まったお経は、意味が分かってこそ、ありがたい。世界観が十二分に味わえる。この連載は、そんな豊かなお経の世界に、あなたをいざなうものである。
これを読めば、お葬式も退屈じゃなくなる!?
著者:島田 裕巳(シマダ ヒロミ)
1953年東京都生まれ。宗教学者、作家。東京大学文学部宗教学科卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。現在は東京女子大学非常勤講師。著書は、『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『葬式は、要らない』(以上、幻冬舎新書)、『0葬』(集英社)、『比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか』『神道はなぜ教えがないのか』(以上、ベスト新書)、など多数。
【般若心経】
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経
◎五蘊(ごうん)とは何か
『般若心経』では、「色即是空 空即是色」の後に、「受想行識(じゅそうぎょうしき) 亦復如是(やくぶにょぜ)」ということばが出てくる。
実は、ここで出てくる受想行識というのは、その前に出てくる色と結びついて、「五蘊」を形成している。
五蘊とは、仏教の基本的な概念で、すべての存在を構成する5つの要素のことをさしている。
そのうちの色蘊(しきうん)は、すでに色について説明したところからもわかるように、私たちが目にしている物質的な存在のことを意味している。
受蘊(じゅうん)とは、そうした物質的な存在が形や色彩を持つことで、私たちを刺激することを意味する。
想蘊(そううん)は、その刺激がこころのなかのイメージを膨らませることを意味し、行蘊(ぎょううん)は、さらにそこから行動が生まれ、識蘊(しきうん)は、同様に知識が生まれることを意味している。
これは、仏教が、今で言う心理学に近いものであることを示している。物質的な存在を前にして、私たちがそれをどうとらえ、そこから何を導き出していくのかを仏教の立場から説明したものが、この五蘊の考え方なのである。
◎教えのなかで重要な事柄は何度もくり返される
ここで重要なのは、「亦復如是」の部分である。これは、受想行識という、色以外の他の4つの五蘊も、色と同じだという意味である。
そう言っても、いささかわかりにくいかもしれない。
それがどういうことなのかと言えば、受についても、色と同様に、「受不異空 空不異受 受即是空 空即是受」だということなのだ。それは、想についても、行についても、さらには識についても言えることで、くり返しになるので、省略されているわけだ。
つまり、私たちが、この世に存在するあらゆる物質的な存在に接して、刺激を受け、イメージを膨らませ、何らかの行動に出たり、知識を増やしていったりするが、それらはすべて空であり、空であるからこそ、そうしたことが起こるというわけなのである。
『般若心経』のなかに、こうした形で五蘊のことが出てくると、私たちはそうしたこころの働きが人間の基本的な認識活動として肯定されているかのように思ってしまうかもしれない。
だが、実はそうではない。それとはまったく反対に、それらはすべて空とされ、実体を持たないものであることが強調されているわけなのだ。
その上で、『般若心経』は、だめ押しをするかのように、「舎利子 是諸法空相(ぜしょうほうくうそう)」と、シャーリプトラに対する釈迦の呼びかけのことばを記している。「シャーリプトラよ、いっさいの存在するものは実体のないことを特徴としている」という意味だ。
これは、仏教のお経にかぎらず、あらゆる宗教の聖典に共通して言えることだが、教えのなかで重要な事柄は、そのなかで何度もくり返される。
しかも、角度を変え、さまざまな側面から同じ趣旨のことが教え諭される。それによって、聖典に接する者の理解は深められていくことになるが、現代人の感覚では、少しくどいと思えることもある。
ただ、その次は、「不生不滅(ふしょうふめつ) 不垢不浄(ふくふじょう) 不増不減(ふぞうふげん)」と続き、新たな展開が見られる。特徴的なのは、そこに、「不」が6回くり返し登場することだ。
実際、この部分を口に出して唱えてみればわかるが、同じ不ということばがくり返されることで、リズムが生まれてくる。
お経というものは、すでに述べたように、唱えられることが前提になっている。だからこそ、唱えやすいように、詩の形式が活用されている。
そして、そのくり返しを通して、あらゆる存在は、生じることも、滅することも、汚れることも、浄まることも、増えることも、減ることもないと説かれるのだ。
◎汚れも浄めもまるごと否定
私たちは、どんなものでも、それがどこからか生じてくると考え、時間が経てば、またそれが滅していくと考えている。それは、生命ということを考えてみればいい。私たちは、生命が生まれ、それがやがては滅していく、滅びていくと考えている。
また、私たちは、汚れるということに対してもかなり神経質だ。日本の神道では、汚れを嫌い、その汚れを祓い、浄めることを重視している。『般若心経』は、汚れること自体を否定し、だからこそ浄める必要もないとしているのだ。
『般若心経』が作られた古代のインドの宗教においても、この汚れと浄めということは重視されていた。それは、ユダヤ教でもイスラム教でも、相当に重要な事柄になってきた。イスラム教徒が豚を食べないのも、それが汚れていると考えるからだ。
ところが、『般若心経』は、汚れを浄めとともにまるごと否定してしまっている。それも、『般若心経』がすべては空だとする、空の思想を説いているからにほかならない。
その点からすれば、大乗仏教において空が説かれるようになったことが、インド社会に対して大いなる衝撃を与えたことが予想される。
昔、映画やテレビのドラマで、頑固者の父親が、子どもの勝手な振る舞いに対して怒り出し、突然ちゃぶ台をひっくり返してしまうようなシーンが出てきたが、空を主張することは、それに近いところがある。
それまでにどんなことが言われていても、空が持ち出されると、それでそれまでのことが一挙に意味をなさなくなってしまうからだ。