お経を聴くのは葬式の時くらい。それも意味が分からないし、お坊さん独特のリズムで読まれるので、聴いているうちにだんだんと眠くなる……。そんな人は多いだろう。 
それじゃ、あまりにもったいなさすぎる!
仏教のエッセンスが詰まったお経は、意味が分かってこそ、ありがたい。世界観が十二分に味わえる。この連載は、そんな豊かなお経の世界に、あなたをいざなうものである。
これを読めば、お葬式も退屈じゃなくなる!?

著者:島田 裕巳(シマダ ヒロミ)
1953年東京都生まれ。宗教学者、作家。東京大学文学部宗教学科卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。現在は東京女子大学非常勤講師。著書は、『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『葬式は、要らない』(以上、幻冬舎新書)、『0葬』(集英社)、『比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか』『神道はなぜ教えがないのか』(以上、ベスト新書)、など多数。

image

◎あらゆる姿になれる観音菩薩

『観音経』の中間の部分になると、観音菩薩がさまざまな世界において、救いを求める人間の求めに応じて、異なった姿で法を説くことが示されている。

如来の姿をとることもあれば、求道者の姿をとることもある。

 

そして、帝釈天によって救われたいと望む人間の前には帝釈天としてあらわれ、天の大将軍に救われたいとする人間の前には天の大将軍としてその姿をあらわすというのである。

ここには、観音菩薩が、仏のなかでも珍しく多様な姿をとる理由が示されている。

 

他の仏は、異なる姿をとることがないので、救える範囲が限られている。ところが、観音菩薩は、あらゆる姿をとることができるので、どんな人間に対しても救いの手を差し伸べることができる。

観音菩薩のなかに、千手観音のように、多くの手をもつものがあるのも、あらゆる人間を救おうとしてのことである。千本の手があれば、千通りの救い方が可能になる。

 

image◎なぜ仏の息子が観音菩薩という名なのか

釈迦から、これだけ観音菩薩の功徳について説かれた無尽意菩薩は、観音菩薩に帰依し、供物を捧げることを申し出る。

無尽意菩薩は、帰依の証として自分が首にかけていた真珠の首飾りを外し、それを観音菩薩に捧げるが、観音菩薩は受けとらない。観音菩薩は、それを二つに分け、片方を釈迦に送り、もう片方は多宝仏の塔に奉る。

すると釈迦は、「偈」と呼ばれる詩の文句を語り出す。それは、次のようにはじまる。

 

世尊妙相具(せーそんみょうそうぐ) 我今重問彼(がーこんじゅもんぴ) 佛子何因縁(ぶつしがーいんねん)

名為観世音(みょういかんぜおん) 具足妙曹尊(ぐーそくみょうそうそん) 偈答無盡意(げーとうむーじんに)

 

これだと、いったい何を言っているのか、さっぱりわからないが、それを書き下しにすると、次のようになる。岩波文庫版から紹介しよう。

 

「世尊は妙相を具えさせたまえり われ今、重ねて彼(観音)を問いたてまつる

『仏子は何の因縁にて 名づけて観世音となすや』と。

妙相を具足したまえる尊は 偈をもって無尽意に答えたもう。

 

無尽意菩薩は、釈迦のことを讃え、その上で、なぜ仏の息子が観音菩薩という名なのかを問う。すると、釈迦は、詩をもって答えたというのである。

その後には、すでに中間の部分で述べられた観音菩薩の偉大な功徳についてくり返される。たとえば、悪人に火の穴に落とされても、観音菩薩の力を念じれば、火の穴は池に変わり、無事に救われるというわけだ。

 

◎どちらも「対象を褒めたたえる」

『観音経』は、『法華経』の一部をなしているわけだが、『法華経』全体で説かれていることとは、直接には関係しないようにも見える。

『法華経』では、すべての人が必ず成仏するという点が強調され、そのためには、『法華経』の教典自体を信仰の対象にすべきだということが説かれている。

だからこそ、『法華経』は、それを信仰する人々から、「諸経の王」とまで言われ、崇め奉られてきたわけである。

 

それに対して、『観音経』では、『法華経』のことについてはふれられていない。

そこで取り上げられているのは、もっぱら観音菩薩のことである、観音菩薩の名前を唱えることで、あらゆる願いがかなうと説かれている。

だからこそ、『観音経』は、『法華経』から独立したお経として扱われてきた。『観音経』は、法華経信仰を説くものではなく、あくまで観音信仰を説くお経である。

ただ、法華経というお経の価値を強調するにしても、観音菩薩の功徳を強調するにしても、もっぱらその対象を褒めたたえるという点では、どちらも共通している。

 

『法華経』に見られる基本的な姿勢は、『観音経』においても踏襲されていると見ることができるのだ。

(観音経つづく)

 

<<ただ「南無観世音菩薩」と唱えればいい(観音経~その3) / 観音経を信仰した二宮尊徳(観音経~その5)>>

関連カテゴリー: