それじゃ、あまりにもったいなさすぎる!
仏教のエッセンスが詰まったお経は、意味が分かってこそ、ありがたい。世界観が十二分に味わえる。この連載は、そんな豊かなお経の世界に、あなたをいざなうものである。
これを読めば、お葬式も退屈じゃなくなる!?
著者:島田 裕巳(シマダ ヒロミ)
1953年東京都生まれ。宗教学者、作家。東京大学文学部宗教学科卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。現在は東京女子大学非常勤講師。著書は、『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『葬式は、要らない』(以上、幻冬舎新書)、『0葬』(集英社)、『比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか』『神道はなぜ教えがないのか』(以上、ベスト新書)、など多数。
●密教的な世界観における理想を表現したお経
密教のお経のなかで特に重要なものが『大日経』と『金剛頂経』である。
これから取り上げる『理趣経』は、『大日経』よりも後に成立した『金剛頂経』の一部をなすお経で、密教の経典のなかではもっともよく知られている。
最初、『西遊記』の三蔵法師のモデルとして知られる玄奘が漢訳を行った。ただし、空海が日本に招来したのは不空訳による『大楽金剛不空真実三摩耶経』の「般若波羅蜜多理趣品」であった。不空は恵果の師匠にあたる。
『理趣経』について述べる前に、『大日経』と『金剛頂経』という密教のお経の関係について述べておかなければならない。
密教ということを聞いたとき、多くの人たちは「曼荼羅」のことを頭に浮かべるだろう。曼荼羅にはさまざまな種類があるが、そのなかで代表的なものが「両界曼荼羅」と呼ばれるものである。
この両界曼荼羅は、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の二つからなっている。どちらもかなり大きなもので、そこにはおびただしい数の仏の姿が描かれている。
胎蔵界曼荼羅の場合には、中心に「中台八葉院」というものがあり、そこでは、密教の本尊である大日如来を中心に、その周囲を4体の如来と4体の菩薩が囲んでいる。
この中台八葉院の周囲には、やはり○○院と呼ばれるいくつもの仏の集まりが描かれていて、外側に行くほど、仏の姿は小さく描かれている。
一方、金剛界曼荼羅の場合には、画面が縦3列横3列に分割され、それぞれは「会(え)」と呼ばれる。
9つの会は、成身会(じょうじんえ)、三昧耶会(さまやえ)、微細会(みさいえ)、供養会、四印会、一印会、理趣会、降三世会(ごうざんぜえ)、降三世三昧耶会からなっている。そのなかの仏の描き方は、会によって異なっており、それを全部説明すると長くなるので、ここでは省略することにする。
密教の儀式を行う際には、この両界曼荼羅を掲げ、その前で護摩を焚くことになる。したがって、両界曼荼羅は、時間が経つと損傷が激しくなる。空海が中国からもってきたはずの両界曼荼羅が今日にまでは伝わっていないのも、そうしたことが影響している。
両界曼荼羅のうち、胎蔵界曼荼羅は、『大日経』に説かれたことがもとになっている。それに対して、金剛界曼荼羅は、『金剛頂経』をもとにしている。そこにも、『大日経』と『金剛頂経』の重要性が示されている。
そのうち『金剛頂経』から生まれた『理趣経』には、大日如来と、修行途上の大日如来の菩薩としての姿を示す金剛薩埵が登場する。金剛薩埵は、衆生の理想的な姿を示したものとして考えられており、『理趣経』は、密教的な世界観における理想を表現したお経として考えることができる。
●仏教の教えを真っ向から否定
不空訳の『理趣経』は、最初に序説があり、最後にあとがきにあたる流通(るつう)という部分が含まれるが、本文は全部で17の段から構成されている。そのなかでもっとも重要なものとされるのが第1段と第17段である。
とくに第1段は、『理趣経』の特徴と言える箇所である。そこには、「一切法の清浄句門を説きたもう」ということばが登場する。これは、「あらゆる存在するものは、それじたいの本性は清らかなものである、という教えを説きたもうたのである」と訳される(翻訳については、宮坂宥勝訳注『密教経典』講談社学術文庫による)。
あらゆる存在の本性が清らかだというのは、『法華経』において、すべての衆生は仏性を備えているという教えに通じるものだが、その後の展開が、『理趣経』の特徴である。
これに続けて、「いわゆる妙適清浄の句、これ菩薩の位なり」となっている。ここで言われる「妙適」とは性的な快楽のことであり、この箇所全体は、「いうところの性的快楽が本来清らかなものである、という成句(=地位)は、そのまま菩薩の立場である」と訳されている。
以下、欲箭(よくせん)、触(そく)、愛縛、一切自在主、見(けん)、適悦、愛、慢、荘厳、意慈沢(いしたく)、光明、身楽、色(しき)、声(しょう)、香、味が清浄であるとされているが、それぞれ、異性のハートを射止める愛欲の矢、異性と抱擁すること、異性と離れがたいこと、異性に対して思いのままに奔放に振舞うこと、異性を見ること、異性との抱擁の喜び、異性に対する本能的欲望、異性との性交に満ち足りること、異性のために身を飾ること、異性と抱擁して満ち足りること、異性への本能的欲望によって目の前が明るくなることなどを意味している。
要するにここでは、性の快楽というもの、あるいは性に対する欲望ということが全面的に肯定されている。なにしろ、そうしたものは清らかなものとされているわけだからである。
一般の仏教、それは顕教においてということになるが、性的な欲望や快楽の追求は煩悩としてとらえられ、否定すべきものと考えられている。だからこそ、僧侶は出家し、そうした欲望を断つわけである。
ところが、『理趣経』は、性的な欲望を全面的に肯定している。それは、顕教を否定し、さらには仏教の教えを真っ向から否定することにつながっていくのである。
(「理趣経」つづく)