<この物語は、ある霊能力者をモチーフにして描かれたフィクションである。>
あくる朝、明美は京子の興奮した声で目覚めた。
昨夜、あれから家に戻った三人は、何か話したそうな美由紀や良子を牽制しつつ、夕食もそこそこに風呂にも入らずそそくさと部屋に戻ると眠ってしまった。まるで取り付く島の無い三人に、良子と美由紀は非難がましく言い募ったが、母の「疲れてるのよ」の一言にしぶしぶ口をつぐんだ。それでも翌朝は、容赦しないつもりだったのだろう、京子からかかってきた電話を口実に、子機を手にした美由紀が押しかけてきた。
「はい、京子さんから…。終わったら来てよね。お母さんがご飯作ってるんだから」
と、まるで勝ち誇るような微笑に、すでにリビングでは、美由紀と良子が手ぐすね引いて待っているに違いないことを覚悟させられた。
「おはよう。…どうした?」
「どうしたのじゃないわよ。アンタ、まだ寝てんの? ちょっと、早く起きてよ」
「なによ。…こんなに朝早くから…」
子どもの頃から、明美の寝起きの声の酷さには定評がある。間延びしたトーンはもちろんのこと、生まれついてのハスキーボイスに一段と磨きがかかり、コーヒーでも飲まない限り今にも死んでしまいそうな声でしかしゃべれない。これまでも、電話の声で寝起きと気付かれ何度も気まずい思いをしてきた。
「だから、一昨日アンタが私に聞いてきたじゃない。…あれよあれ、裏巳午だとか子どもたちの幽霊が出たとかなんとかっての…」
やっと起動しかけた頭の中でアラームが鳴っている。
「えっ? なに? なにかあったの?」
「なにかあったのじゃないわよ! アンタ知らないの?! TV観てないのね? そうか、まだ寝てたのね!! また死んだのよ! …自殺よ自殺。今度は、川床で発見されたのよ。これって絶対、あの噂がらみよ。聞いてる明美?」
途中、自殺のあたりから、京子の声はほとんど聞こえていなかった。受話器を握りしめた掌がじっとりと汗ばんでいる。何と言って返したか覚えてないが、なんとか辻褄を合わせて京子から切るように仕向けた。
川床とは、昨夜子どもたちを見た辺りの地名だ。京子の話では、今朝、川床地区に住む母親と二人暮らしの中年男性が、家の裏山で首を吊っていたらしい。
『9月○日未明、市内松尾町川床地区の山林にて男性の遺体が発見されました。遺体は、同町に住む久方義純さん(66)。年老いた母親との二人暮らしに将来を悲観し自殺したものと思われます』
と、これが事件のあらましを伝える地元のTVニュースだ。それ以上の事がわかるほど、明美は地元に明るくない。ただ、昨夜見た子どもたちの姿と耳に残る声だけが、明美の脳裏から消えないでいた。
“一で俵踏まえて 二でにっこり笑ろて 三で酒造って 四つ世の中良いように 五ついつものごとくなり 六つ無病息災に 七つ何事ないように 八つ屋敷を建て広げ 九つ小倉を建て並べ 十でとうとうおさめた この家繁盛せえ、もうひとつおまけに繁盛せえ”
大学進学と同時に松山を離れた明美だが、それでも子どもの頃に歌い歩いた数え唄の一節を耳にすれば、生まれ育った町に伝わる古い風習を思い出す。あの歌は、毎年秋の刈り入れが終わった頃に、その年の収穫を祝うとともに災いを祓い子孫繁栄を願って子どもたちが家々を回り、藁を束ねて拵えた撞き棒で庭先を搗きながら歌う数え歌だ。明美自身も、まだ幼い頃に近所のお姉ちゃんやお兄ちゃんに連れられて歌い歩いた覚えがある。
その数え歌を、昨夜の子どもたちは歌っていた。そして、そんな歌声の向こうに、すすり泣くように小さな声が、「お母ちゃ~ん」「お父ちゃ~ん」と幾つもの声が重なり合っていたような気がする。
それはとても悲しく、容易に消すことができない声だった。
表と裏
「裏巳午って、いったいなにが目的の儀式なの?」
後日、明美は実家から歩いてほどない叔父の家を訪ねた。
「裏巳午? なんだ? どうしてそんなこと聞くんぞ。なんかあったんか?」
父の三歳年下の弟にあたる叔父は、なかなか答えようとしない。叔父の様子には、明らかに何かを隠している気配が漂っている。
代々続いた農家を継ぐことも無く、学業と研究に明け暮れた父とは違い、先祖伝来の田畑を守ってきた叔父は地元にも顔が利く。何より、地元の慣習に明るかった。どちらかといえば苦手な叔父だが背に腹は替えられない。そして、なかなか引き下がろうとしない明美に、叔父は慎重に言葉を選びながら語り始めた。
「昔はよぅ見かけたなぁ。…今はもうしよらんやろぅ。そんな古い風習、知っとる人間も少ないやろし。ま、おまえらみたいな若い連中は知らんで当然よ」
「えっ、昔はみんなしてたの? 裏巳午ってそんなに当たり前だったの?」
「ワシが言いよるんは巳午のことよ。裏じゃないわい。巳午言うんはお正月よ。その年亡くなった人のな。戦国時代からやなんていいよるのもおるけど、本当の事は誰も知らん。ワシが子どもの時分はあちらこちらでやりよったし、ず~と昔からやて聞いとる。ここいら辺の人間の優しい気持ちのあらわれじゃろの。のうなった人にも、お正月を楽しんでもらおぅいう気持ちじゃけん」
「でも、それは巳午でしょ。裏巳午ってのはなに?」
「……そんなこと誰が言うたんぞ。そんなもん、今はやらん。……あれは親の気持ちよ。自分よりも早ようにのうなった子に、戻ってきてもらいたいゆう気持ちじゃけん」
「そんなことができるの?」
「できるわけなかろが! 一度のうなった人間が生き返るなんちゅうことがあるわけがない」
「でも、信じてる人もいるんでしょ」
「…おるんやろなぁ。昔は、時々耳にしたわい」
叔父が言うには、裏巳午とは12月の最初の巳の日の深夜に墓に行き、巳午と同じ儀式を逆の形でひっそり行うことらしく、ごく一部の人の間では死んだ人間を蘇らせることができると信じられていた、してはならない儀式のようだ。しかし、本当のところはよくわからない。なぜなら、巳午ですらも処によってはやり方も違えば行う時刻もまちまちで、叔父の言うような時刻に行われるようになったのは極々近年の事らしい。かつては、巳の日の深夜から始め、一番鶏が鳴く前に終わらせるのが決まりだったが、いつの頃からか巳の日の正午に行うようになったのだと言う。
確かにほとんどの人がお百姓だった時代ならば可能だろうが、近頃のように会社勤めするようになれば、そうそう深夜から早朝にかけて墓地に集まるなどできるわけがない。しかし、そうなると巳午とは逆のしきたり…という裏巳午など、一体どう判別したものかよくわからなくなる。
そして、昨年末に噂された農協裏の裏巳午について聞くと…
「そんなこと、口にしたらいかんのでぇ! あんなもん出鱈目よ。前の日の深夜にやりよった言うても、本来巳午っちゅうんはそういうもんよ。縄が逆綯いやったとか言うけど、本当かどうかわからせんわい! どこぞのおばぁが見た言うけど、そんなもん本気にしとったら笑われるんで」
と、眉間に皺を寄せ、子どもの頃に悪戯をしたときのような厳しい顔で叱られた。
わかったことは、かつて「巳午」は当たり前のように行われていた行事だということ。そして「裏巳午」は、我が子の蘇りを願って人知れず行われた儀式で、そんなあり得ない悪夢のような奇跡(?)を信じる人が昔はいたらしいということ。ただでさえ口数の少ない叔父から、これだけの情報が得られたのは思いがけない収穫だった。
ただ普段から口数が少なく、それでなくても誰かと議論するなど有り得ない叔父が、しどろもどろになりながらも理路整然と否定する様は、少なからず誰かと、何度となくこの話をしたに違いなかった。
告別式を終えた明美は、健作と亜里沙を東京に戻して一人松山に残っていた。なぜそんなことになったかといえば、それは父が残した膨大な遺品の整理なのだが、それは言いわけでしかない。なぜなら父の書斎と仕事部屋には文献や報告書がうず高く積み上がり、とても明美一人で整理などできる量ではなかった。加えて復元途中の土器片や石器の類に至っては、そのまま発掘現場が幾つか再現できるのではと思わせるほど膨大な量に上る。正しく処分するには、研究者に託すか図書館にでも寄贈するしかないだろう。頭ではわかっていても、父の部屋に入ってそれらを目にするたびに、在りし日の父の姿が蘇ってきて明美はただ手をこまねいていた。
そんなある日、遺品の中に曾祖母から続く(或いはもっと以前からか)斉藤家の血の秘密を解明するべく父が奮闘していたかと思わせる痕跡を見つけた。
いつの頃からか父は、古代における朱と呪術の関係性を裏付ける資料や文献をまとめようとしていたようだ。
石の持つ記憶
「きっとその玉には、れっきとした履歴があるぞ」
それは在りし日の父が、娘夫婦が暮らす東京のマンションに泊りに来た際に、東京で占いの真似事をする明美が大切にしている黒い石を見て口にした言葉だった。
「ギョクって? この石のこと。…玉って言うんだ。パパにもわかる? で、レッキトシタリレキってなに? これって、以前リーディングした夫婦が預けていったのよね。…よく わからないけれど、この石を手にしてからリーディングが変わったのよ」
明美は石を掌に載せ、目の前にかざしてまじまじと見つめた。
「どれ、見せてみなさい」
毎年春になると、年に一度開かれる学会に出席するべく上京する父は、明美たちのマンションに泊るのが恒例になっていた。
その夜も、世田谷区内の大学で開かれた学会に出席した父が、一年振りに見る孫娘が眠った後、健作と日本酒を酌み交わしていた。そして、ひょんなことから明美が、訊ね来る人を相手に占いの真似事をしているという話になったのだ。
デザイナーになりたいと言って郷里を離れた明美の、ましてや夫や子を持つ身になっての奇妙な転進を、果たして義父がどう言うか…。行きがかり上話すしかなかった健作は固唾を呑んで見守っていた。
しかし、そんな健作の思いとは裏腹に、父はほぼ無反応に近かった。「仕方ないな」とでも言いたげに少しだけ首を振ると、後は明美に向かって日々のリーディングの様子を興味深げに聞き始めた。そして、問われるままに占いの様子や手法を語る明美が取り出したのが、このところお気に入りの黒い石だった。
玉が放つ力
長辺が約7センチ、幅が約4センチの楕円形をした漆黒の石は、掌に50グラムほどの重さを感じさせる。
石を持ってきたのは、祖父の代に創設した建設会社が倒産しそうだと泣きつく50代半ばの男だ。
そのとき明美は、うなだれたまま何も言おうとしない男が見せるビジョンから男の会社が置かれている現状を言い当て、打破すべき問題点とその優先順位を示してみせたのだ。そして後日、妻を伴って再び現れた男から、倒産の危機を乗り越えたことのお礼と同時に預けられたのがこの石だ。
石は、創業者である男の祖父が建設現場の土中に見つけて持ち帰り、以来大切に守り伝えてきた会社の守り神的存在だった。
男が語るには、祖父はこの石から、創業に始まる幾度もの転換期に様々な霊意を授けられ乗り越えたと言う。その間、強い霊感を持っていたらしい祖父によって石は大切にお祀りされたが、そんな祖父が亡くなって以降はお祀りもおろそかになっていた。そして三代目となる男の代に至っては、霊意どころか何度も事故やアクシデントに見舞われる有様で逆に怖くなったらしい。
強い霊感を持つ祖父ならいざ知らず、なんの霊感も無い先代や男にはお祀りの仕方もよくわからず、もしかすると霊威に触れてしまったのではないかと内心穏やかではなかった。そこで、前回の占いで危機を回避させた明美に、改めて石をお祀りしてもらいたいと言うのがその日現れた本当の理由だった。
「なにか大切なものをお持ちいただいたようですが、本当に手放すおつもりですか?」
明美は、まだ二人が何も言わないうちにそう口にした。驚いた男の妻が、齢のわりには可愛い瞳を大きく見開き、隣に座る夫の顔をマジマジと見つめている。
「…ほら、言ったとおりだろ。やっぱり、こういう先生に持っていてもらった方がいいんだよ。…おっしゃるとおりです。今日は、私どもの家に伝わる不思議な石をお預かりいただけないかと思い、妻と二人でお訪ねしました」
男は、持って来た紙袋からシガーケース大の桐の箱を出すと慎重な手つきで蓋を開け、中から真紅の羅紗に包まれた漆黒の石を取り出した。
「…面白い石…」
左手に乗せた石に右の掌を重ね合わせると、石はすっぽりと包み込まれて姿を隠したが、目を閉じた明美の脳裏には鮮明にその姿が浮かび上がっていた。ほんの少しでも意識を緩めると、たちまち吸い込まれそうになる。
「…お預かりするのは良いんですけれど、…どうすればいいですか?」
「はい。果たしてその石が、どれほどの力を持っているのかいないのか、お恥ずかしい話ですが私どもには全くわからないんです。ですから、できれば先生にお預かりいただいて…。なにか力があるなら、それに相応しいお祀りをしていただけないかと思いまして」
それは、一見何の変哲も無い黒光りする楕円形をした石でありながら、手にした明美が身構えるほどに強力なパワーを感じさせる石だった。
パワーストーン
古来、貴石や宝石には、ある種の力が宿ると信じられてきた。マヤ文明において翡翠は呪術の道具として、中世ヨーロッパにおいて紫水晶は魔術の道具として用いられた例もある。また近代においては、水晶には強い癒しの力があると信じられるなど、様々な貴石がアクセサリーの枠を超えて親しまれている。真印さん曰く「耳の下(耳下腺)や首、手首、足首は邪気が侵入しやすい場所で、そこに強いエネルギーを持つ石を装着することにより、邪気払いの効果がある」という。また、真印さんによれば、記憶を持つ石があったり、その記憶を読むこともあるという。「私自身のリーディング能力を増幅させるほどの強力なエネルギーを持つ石も有ります」(真印さん)。現に記者は以前、『女性自身』で取材した高知県の巨岩「ゴトゴト石」と、真印さんが親しげに会話する姿を目の当たりにしたこともある。
著者プロフィール
那知慧太(Keita Nachi)愛媛県松山市出身 1959年生まれ
フリーライターを経てアーティストの発掘・育成、及び音楽番組を企画・制作するなど、東京でのプロデュース活動を主とする。現在は愛媛県に在住しながら取材・執筆活動に勤しむ。『巳午』を処女作とする。