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<この物語は、ある霊能力者をモチーフにして描かれたフィクションである。>

友だちに自慢でもするつもりだったのだろう。グループから離れて沖合のブイを目指して泳ぎだした理沙は、やがてブイに取り付くと見守るクラスメイトに誇らしげに手を振って見せた。そして砂浜に戻ろうと再び泳ぎ始めた瞬間、まるで異星の生物のように波間を漂う長い触手を持ったクラゲが、幼い四肢に絡みついた。

普段から泳ぎ慣れている少女は、絡みついてきた触手をビニール袋か何かがまとわりついた程度に思ったに違いない。そして、絡みついたビニール袋を引き剥がそうと指を掛けた刹那、少女の思うビニール袋は、これまで味わったことのない激烈な痛みと痺れを少女に味合わせた。

まるで壊れた行灯のように不恰好な浮遊物は、激烈な毒を隠す刺胞を持つ長い触手を柔らかな腕に絡みつけ、少女が払いのけようとした瞬間、まるでゴム手袋でも引っくり返すように瞬時に刺胞を裏返し無数の針を幼い肌に打ち込んだ。

近年、各国で研究されるくらげ毒は、未だに解明されないまま、その毒成分すら不確定だが、想像を絶する激痛を少女の身体全体に与えたに違いない。不気味に伸びた長い触手は25メートルプールを往復してみせるしなやかな四肢を、まるで電気ショックでもかけたかのように硬直させ激しく痙攣させた。少女は激痛に顔を歪め、やがて呼吸困難に陥りながら、もしくは襲い来る心筋梗塞に四肢を何度か痙攣させながら波間に消えた。

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急を告げる子どもたちの声に、何名かの教師が海に飛び込んだがすでに遅かった。寄せては返す波の根元辺りを漂う少女を助け上げた時には、その小さな身体から人間らしい反応は返ってこなくなっていた。こんがりと陽に焼けていたはずの肌は蒼ざめ、そこには無残に幾筋もの赤条痕が浮かび上がっていた。

知らせを受けて駆け付けた母親は、冷たくなった娘の身体にしがみついて泣き叫び、引き離そうとする看護士に恐るべき力で抗い続けたという。

溢れ出す情念

以来母は、町内でも眉をひそめられる存在となった。子どもたちが集団で登下校する時刻になると、小さな建売住宅から出てきては列に向かって我が子の名を呼び、同じ背格好の女の子を見れば手を引いて家に連れ込もうとする。少女の母は半ば狂っていた。

上村静江を名乗る女の相談は…聞くまでもなかった。女が襖を開けた瞬間、白々しく照らす蛍光灯がブンッと鈍い音を立てて明度を落とし、思わず顔を背けたくなるような嫌な臭いが明美の鼻腔に絡み付く。

この辺りには珍しく都会的な顔立ちの女は、不眠症を思わせる艶のない肌に虚ろな目を泳がせて、一見して心の病に冒されているとわかった。明るく振舞ってさえいれば、スレンダーとでも言われるに違いない痩せぎすの体をこざっぱりした花柄のワンピースに包み、重たい足取りですすめられた椅子に腰を下ろすと気だるそうにボールペンを持ち上げリーディングシートに記入し始めた。

「上村静江」。その名を目にした瞬間、明美の脳裏でけたたましくアラームが鳴り響いた。

こらえきれずにひとつ咳払いをして椅子をずらすと、うつむき加減の女の横顔を左の目尻で一瞥して目を閉じ光明真言を唱える。いつもならば、やがてゆったりと感情の波が押し寄せて来てその源を成すヴィジョンが見えてくるのだが、この時ばかりは違っていた。

うつむき加減の女から流れ込んでくる波動はどこまでも暗く冷たく、それでいて四肢に絡みつくような…まるで氷点下でも液状であり続ける特殊なタールのような粘性を有する物質で、もはや感情の域を超えた怨念にも似た情念の渦だった。

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「可哀想に、…理沙ちゃんっていうんですね」

それまでガラス玉のようだった女の瞳が、弾かれたように大きく見開かれ鈍く光った。まだ何も言わないうちに、不幸にしてこの世を去った愛娘の名を告げられ、女は明らかにうろたえていた。

「可愛いお譲ちゃんでしたね。本当にお気の毒。…でも、そろそろ立ち直ってあげないと…。お母さんがいつまでもそんなじゃ、理沙ちゃんも安心して旅立てませんよ」

「なに言ってるの! 理沙は死んでません! …帰る場所がわからなくて迷ってるだけなの。戻ってくるのよ!」

真言を唱えながら波長を合わせた瞬間から、女からは娘の名を呼ぶ声と取り戻したいという強烈な念しか伝わってこない。それどころか、娘を取り戻せるものなら、命すらいらないと一途に思い定めているようだ。

「…そうね、それにしては不自然ね。それほど愛しているあなたのそばに、お嬢ちゃんが見あたらない……」

「そんなことは聞いてません。理沙は、今どこにいるんです? はやく見つけてあげないと…」

「待って。ごめんなさい、お母さん。残念だけれど、お嬢さんはお亡くなりになっています。それをまずお母さんがしっかりと認識しなきゃ…」

「なにを言ってるんですかっ。…理沙は生きてる。生きてるんです。…ただ、どうやって戻ればいいかわからないだけなのよ…」

どうしても娘の死を受け入れられない女の声は、聞き取ることも叶わない嗚咽に変わっていた。そして女は、力なく椅子から滑り落ちるとそのままうずくまってしまった。助け起こそうと、泣きじゃくる女の肩に手をかけた瞬間…。明美の右手は女の肩に張り付き、強烈な電圧でもかけられたように引き締まったまま震え続けた。右手を伝って、さっきまでとは桁の違う禍々しい念が凄まじい勢いで流れ込んでくる。思わず明美は、意識が飛んでしまいそうになった。

鏡の中の少女

どれほどの時間が経ったのだろう…。随分と長い時が経ったような気もするが、ほんの数秒だったのかもしれない。気がつくと、助け起こそうとひざまづいた明美を、いつの間にか立ち上がった女が無感情に見下ろしていた。

「…がっかりしました。私、帰らせてもらいます」

言うが早いか、女は踵を返すとそのまま立ち去ろうとしている。我に返った明美が、女の背中に声を投げかけた。

「お母さん。もう、これ以上お嬢ちゃんを苦しめちゃいけません。…本当はわかってるんですよね」

明美の悲痛な声は、女が後ろ手に襖を閉じる音にかき消されていた。

一人残された明美は、呆然と女の消えた襖絵を見つめた。まだ血の気が戻らない。全身が冷たく強張り、背筋には冷たい汗が流れている。

確かに女の意識は混濁していた。おそらくは娘の思い出なのだろう、母親としての記憶と娘の無邪気が交錯し、容易にその姿を現そうとしなかった。母として娘として、それぞれに輝くような笑顔が見えるのに、それを分厚い情念のベールが覆い隠している。何とかそのベールを剥がそうと手を差し伸べてみるのだが、挙句、明美自身が飲み込まれそうになる。そして、飲み込まれようとしたその刹那。明美を封じ込めようとする女の情念の襞を間近で目にしたが、それは思い出しただけでも身震いするほど生々しく、おどろおどろしいモノだった。

やがて体を起こした明美は、少しふらつきながらも洗面台へ向かうと蛇口をひねり、勢い良く流れ出した水に両手を差し出し肘から先を何度も何度も塩で揉みながら洗い流した。そうしてやっと、執拗に絡み付いてくる情念のタールが剥がれ落ちていく感覚にホッと息をついた。

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鏡の中には、同じ顔とは思えない瞳だけをぎらつかせた自分がいる。それはまるで、さっきの母親を見るようでとても嫌な気がした。そしてフ~ッと大きく息をついて鏡に顔を近付けた時、そこに在ってはならないモノの存在に気がついた。

なんと、鏡に向かった明美の背後に半ば隠れるような格好で、洗面所の引き戸の辺りに青白い顔をした少女が立っているのだ。

鏡に映った少女が、コノ世のモノでないことはわかる。家人でもない見知らぬ少女が、白昼の家の中に居るわけがなかったし、この手の来訪者には慣れてもいる。

しかし、この時ばかりは息を詰まらせてしまった。あろうことか明美は、まるで普通の人がするように、振り返ってその目で確かめようとしてしまったのだ。しかし、そこには誰もいない。当たり前だ。そして再び鏡に向かうと、やはり鏡の中に少女は居た。

すべてを察した明美が、鏡に向かって意識を向けると…少女が語りかけてきた。

『お願い…ママを助けて…』

「待って、理沙ちゃん? …あなた、今どこに居るの?…」

反射的に問い返したが、すでに鏡の中に少女はいない。そこには、ただ涙を流す明美自身が映っていた。

救済の糸口

「なんいよんぞね、アンタ。そんなこと聞いてどうするんよ」

明美の淹れた昆布茶をすすりながら、中村のおばちゃんは不機嫌そうに応えた。

「やっぱり、さっきのはあの人かえ…」

どうやら入れ違うように立ち去った静江の後ろ姿を見たようだ。二日と空けず現れるおばちゃんにとって、居合わせた客と顔を突き合わすなど珍しいことではなかったが、その日すれ違った若い母親からは普段見る客とは違う異様な雰囲気が漂っていた。

「…正直言うと、よくわからないのよね。だって私、巳午も知らなかったんだから。裏巳午なんて言われても、見たことも無いしわかるわけないじゃない」

思わず口を衝いて出た本音だった。

相談者を前にした時、明美は「先生」などと呼ばれたし、先日もおばちゃんが失くした指輪のありかを言い当てたりはしたが、だからといって何でもわかるわけではない。ましてや、自分自身が見たことも聞いたことも無い儀式が引き起こした怪奇な現象の真相などわかる道理がない。

「困ったのぅ。わたしには、アンタに不思議な力が備わっとることはわかるけど、それ以上はのう…。可哀想じゃけど、ばあちゃんはなにもしてやれんわい。

…ほうじゃのぅ、アンタのばあさんが生きとればエエ知恵もあったんじゃろうに…」

と溜息をつくと、音を立てて昆布茶をすすった。

明美の中で、何かが閃いた。

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「なになに、アンタから呼び出すなんて珍しいじゃない。随分とお見限りだったけれど、なんなの? 私との友情でも深めようって魂胆? そうか、なんだかんだ言っても東京に亜里沙ちゃんもダンナも置いてきちゃったから寂しいんでしょ。それならそうと言いなさいよ。こっちにだって、一声掛ければダンナおっぽらかして出て来る女子はいるのよ。カラオケでも行こうって言えば何人かは集まるわよ」

「そんなじゃないわよ。ま、一人でつまらなくないかって言えば…正直、若干持て余してはいるけど。今夜はそんなんじゃなくて、京子とゆっくり話してみたかったのよ」

「ま、悪い気はしないけど…。でもよかったわね、お母さんも思ったより元気みたいだし」

皆が案じていたように母は老け込むことも無く、どちらかというと、父が生きていた頃よりも若返ったようにも見えた。

「そうなのよ。もっとショックを受けるんじゃないかと心配していたんだけど、こうなると、美由紀がずっと嫁に行かなかったのが功を奏したって感じかな」

「ま、それは小さくは無いわね」

幼馴染と言っても良い、明美にとっては数少ない友人との夜。今夜明美は、恐らくは京子も口にしたくないであろう不気味な噂話の全容を、是非にも確かめなければならなかった。

瞑想

瞑想(Meditation)とは、心を鎮めて無心になり、神に祈ったり思いを巡らせたりすること。洋の東西はおろか、様々な宗教にも見られる。古代インドに発祥するものや、キリスト教、回教、仏教などにも同様の修行法がある。それは、日本の神道においても「御魂鎮め」などの名称で存在する。瞑想法としては、対象を定めて集中を高めていく方法と、対象を定めず様々に去来するイメージを観察する方法に大別される。
真印さんの日常的な瞑想法は、写経とウォーキング。「それによってパイプ(高次に繋がるアンテナのようなものを、真印さんはそう呼ぶ)のクリーニングができる」と言う。また〝重篤〟な相談者と対峙したあとなどには、真印さんはバスタブに浸かりながら瞑想をすることもある。「亡くなった祖母や実父が現れたり、ときには私をガイドしてくれる〝口の大きな男〟と呼ばれるメディスンマンが現れて、道を示してくれます」(真印さん)。

SILVA真印オフィシャルサイト

著者プロフィール

那知慧太(Keita Nachi)愛媛県松山市出身 1959年生まれ

フリーライターを経てアーティストの発掘・育成、及び音楽番組を企画・制作するなど、東京でのプロデュース活動を主とする。現在は愛媛県に在住しながら取材・執筆活動に勤しむ。『巳午』を処女作とする。