それぞれの2年目 #5「心に復興なんてない」井上誠(54)さん
■悲しみは津波が来た時刻
「もう少ししたら防災庁舎に行こうか」
私は今年も南三陸町の井上誠(54)さんのお宅でその日を迎えた。
誠さんは、町職員として働いていたひとり息子の翼(たすく)さんを防災庁舎の屋上から大津波にさらわれ失った。まだ23才。最年少の職員だった。
井上さんのお宅でお昼をごちそうになり、お話を伺っていたら、すでに14時20分をまわっていた。自宅から防災庁舎まで20分はかかるが間に合うのか。
「いいんです。14時46分は地震が来た時間ですから…翼はまだ生きていたんです」
昨年のこの日も防災庁舎前にはたくさんの報道陣がその時間を待ち構えていた。サイレンの音が街中に響き渡り、黙祷が終わると、各局のワイドショーのレポーターは、涙する人々にマイクを向けた。しかし津波到着時刻の15時33分、そこには地元の新聞とローカルテレビ局以外に、報道陣はいなかった。次々と車から遺族が降りてきて、屋上を見つめて涙した。その中に誠さんと妻・美和子(49)さん、そして二人の娘さんの姿があった。
「こんなところで寒かっただろうね」
美和子さんはそう言うと、ずっと天を仰ぎ、頬からこぼれる涙を拭おうともしなかった。娘さんたちも同じ方向へ祈りを捧げる。カメラマンの私も、ファインダーが曇り、まともにシャッターを切れなかった。しかし、その横で、グッと奥歯を噛み締め、眉間に皺を寄せて立っていた誠さんが、涙を見せることはなかった。
■家族のような向日葵
井上さん家族との出会いは、私が撮影した一枚の写真がきっかけだった。それは、2011年の夏に、防災庁舎の前で撮った向日葵の写真。向日葵はまるで家族のように仲良く咲いていた。ネット上に写真を公開すると瞬く間に人々の輪が広がった。後に、この向日葵が、阪神淡路大震災で亡くなった加藤はるかちゃん(当時12才)の家の庭に咲き、被災者を励ました「はるかのひまわり」の子孫だと知った。
この写真には、向日葵だけでなく、多くの方が亡くなった防災庁舎が写っている。私はとても悩んだが、写真展を開催し、義援金を集めようと決心。1000枚のポストカードを制作して一枚100円で販売した。そして南三陸町での反応も真摯に受け止めようと思い、仮設食堂で無料配布してもらった。
「向日葵の写真を撮った方ですか?」
その年の冬、この食堂で昼食をとっていると従業員の女性が話しかけてくれた。それが誠さんのお姉さんだった。この向日葵の種を防災庁舎前に植えて育てたのは、亡くなった翼さんのおばさんとお母さんだったのだ。
「ポストカードを見つけた時、翼に想いが通じた気がして、涙が止まらなかったんです。もっと大きな写真をいただけませんか?」
私はすぐに写真を引き伸ばし、額に入れて、おばさんと誠さんにお送りした。そして被災地をポストカードにした罪悪感から少しだけ解放された。
■人生は巡り愛
2012年2月、ようやく誠さんにお会いできた。ご自宅は、海岸からは車で5分ほどの内陸にあったため、津波の被害がなかった。
「結婚したり、子どもができたり、うーん、本当にこれからが楽しい人生だったのになぁ」
私が仏前で焼香をさせて頂き、手を合わせていると、誠さんが残念そうに言い、大きくため息をついた。
隣の和室の居間には、翼さんが少年野球大会で入場行進している写真が誇らしげに飾られていた。志津川高校野球部のエースだった誠さんは、息子の少年野球チームの監督をやっていた。誠さんの身長は182センチ。さぞかし良い投手だったのであろう。
「高校に入って翼は野球部には入ったんですけどね。親父が野球やってたからって、オマエがずっとやる必要はないんだぞって、高1の途中で辞めさせたんです」
有名な投手だった父を持ち、周囲から期待され重圧を感じる息子へ、自分の道を見つけていいぞと伝えたのだ。翼さんは、その後、バレー部に在籍したが怪我で退部、進学した獨協大学では、スキーサークルに入っていたという。
「獨協大学だったんですね。実は私、10年前から、年に数回、獨協大で写真の授業をやらせてもらってるんですよ。200名ぐらいのクラスだから翼くんに会っていたかもしれませんね」
すると、誠さんは、翼さんの遺影に向かって大きな声でこういった。
「翼、オマエの学校の先生だったんだね。先生が会いにきてくれたぞ!」
一緒にコタツに座っていた妻・美和子さんがハンカチで目頭を抑えた。
そして、誠さんの母・みわ子(84)さんは涙声でこういった。
「なんで翼さ、持っていくんだ津波は。私が身代わりになりたかった。私が流されれば良かったんだ、ねぇー先生」
私は返す言葉がなかった。おばあちゃんは、沿岸部に近い場所で被災し、運良くビルの屋上に避難し助かったという。誠さんは、ただ黙って下を向いていた。
(後編に続く)
写真・文 シギー吉田