中下大樹さん(38)は真宗大谷派の僧侶だ。しかし、普通の僧侶とは違う。まず、見た目。取材日もけさ姿ではなく、黒のジャケットにズボン。宗派を超えた寺院ネットワーク「寺ネット・サンガ」など活動は幅広いが、その一つが独居老人の孤立死防止のための見まわり活動だ。

 

「孤立死が発生しました。すぐに来てほしい」と、民生委員などから連絡を受けると駆けつけ、花や棺の手配、葬儀では読経をして、さらに一時的に遺骨を引き取ることも。その数、年間におよそ80件。これまで2千人の死に立ち会った。ほとんどが無償のボランティアだ。

 

「東京に限っていえば、現在亡くなった方の3割が、葬儀を行わず、直接火葬する直葬なんです」(中下さん・以下同)。貧困や高齢化による家族関係の断絶など理由はさまざまだが、3割もの人が縁ある人とのお別れをせずに葬られる。また孤立死は、若年層にも増えているという。

 

「私は、孤立死を全否定はしません。あえて独りで亡くなることを選択するのも、一つの生きざまです。でも、僕が見た孤立死の現場では、ある共通点があるんです。多くの故人が、柱や家具につかまって、玄関に向かおうとしてこと切れていました。つまり、最期はSOSを出していたのです」

 

東京生まれの中下さんは、生まれたときから母子家庭で父親の顔も知らない。母親は幼い彼に暴力をふるい、次々と交際相手を替えた。やがて、小学校に上る前に3歳の妹と北九州の祖父母宅へ。しかし、そこでも祖父に虐待を受ける。次に身を寄せたのが同じ北九州の叔父の家。優しい叔父だったが、中下さんが小学3年生のときに自宅で縊死を遂げる。発見者は中下さんだった。自殺の理由は借金の保証人になったことだった。

 

その後、中下さんは東京に戻り、生活は新聞配達で支えた。「世界はとことん不平等だと思いました。ただ、誰にも平等に訪れるのが死ぬということであると同時に気づいて。漠然と死に興味を持つようになりました」。新聞奨学生の生活は大学進学後も続いた。25歳で大学院へ。ターミナルケアを学び、その研究の一環でタイの寺院へも通った。

 

「ある寺院は『エイズホスピス』と呼ばれていて、お坊さんがエイズ患者の看取りから葬儀、納骨までしていました。ミイラのように痩せこけた患者たちに寄り添う僧侶と日々を共にするなかで、人間の命の最期のセーフティネットは、宗教者であることを目の当たりにしたんです。帰国後、お寺出身の講師から『僧侶にならないか』と声をかけられました。まさか自分にそんな道があるとは考えていませんでした」

 

その縁がきっかけで、卒業後に京都の東本願寺で1年間修行し、28歳で真宗大谷派の僧侶となった。選んだ職場は、新潟県長岡市の総合病院「ビハーラ病棟」だった。仏教系のホスピスだ。そこで4年間、500人以上の看取りを体験。退職して東京に戻った中下さんは「生老病死の駆け込み寺」として「寺ネット・サンガ」を設立。翌年には、社会から孤立した人たちのために「葬送支援ネットワーク」を立ち上げた。

 

「『無縁社会』という言葉が独り歩きしていますが、そもそも無縁なら誰も生まれてこないんです。僕自身、今も親が嫌いですが“生まれたこと”には感謝しています。その無縁は実は『絶縁』なんです。あったはずの縁を、自ら絶ったり絶たれたりすることで途絶え孤立してしまう。だから、孤立死するかもしれない人が、人生の最期を前に手を差し出しているのであれば、そこに向かって誰かが歩いていくことが大事なのだと思います」

 

「孤立死は連鎖します」と言って、中下さんはある40代の女性Aさんの話をした。Aさんとその母は疎遠で、母親は孤立死した。その葬儀をすませてAさんの自宅へ行ってみると、中はゴミ屋敷。うつ病を患っているというAさんは一日中寝たきりで、年ごろの娘2人も不登校になり、トイレも面倒だとペットボトルですませているという。「でも、見た目は普通のマンションだから誰も気づかない。孤立はこうして連鎖していくんです」。

 

それから中下さんは、初めて少し厳しい表情になり、「孤立死は、ある意味便利で都合のいい生活を追求してきたツケなんです。自分は直葬でいい、無縁仏でいいと思っても、それで自分の子や孫までもが孤立していくことになりかねない。それをいま一度考えていただきたいんです」

 

中下さんは現在、都内で一人暮らし。講演では「婚活中」と語ることもあるらしい。だが、「今は自分自身が、孤立死予備軍ですから」と、どこまで本気なのか、そんなせりふを吐きながら、差し出された無数の手に向かい、また街の雑踏に消えていく黒いジャケットの後ろ姿があった。

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