「いま、いちばん大切なのは一日も早く、福島の原発事故を収束させる方法を確立することだと思うんです!」

 

東京・永田町の衆議院議員会館。自民党の竹本直一代議士を前に、1人の女性が栗色に染めた髪を振り乱し、熱のこもった陳情を続けている。彼女の言葉に竹本代議士も「福島の復興は我々の使命です。全力を尽くします」と固い握手を交わした。

 

彼女の名は筑波久子さん(75)。石原裕次郎や小林旭らが活躍していた映画全盛期の1957年、彼女の主演した『肉体の反抗』が大ヒットし、日活の看板女優として人気を博した。主演した映画は40本以上。だが数年後、突如として日本映画界から姿を消す。彼女が24歳のときだった——。

 

「映画は大好きでしたけど。肉体派女優というレッテルに疲れきっていました。そんな役柄ばかり演じたことで、周りの人たち、とくに男性たちが私生活でも奔放な女性像を私に押しつけようとする。それが本当につらかった」

 

ある晩、筑波さんは横浜のレストランで倒れ、緊急入院。虫垂が破裂していた。「その入院を機に決心したんです。日本を離れようと。救われた命なんだから、生活を一から変えてみようって」。向かったのは自由の国、アメリカ。ニューヨークのコロンビア大学での語学留学だった。

 

そして、27歳で米国人男性と結婚し、長男・キースくんを出産。その後、映画プロデューサーとして、『ピラニア』(’78)などヒット作を連発。だが、突然の悲劇が彼女を襲う。18歳になった息子が自ら命を絶ったのだ。幼いときから感受性が鋭く、とてもナイーブだったというキースくん。’86年4月、ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故後、未来を悲観しての自殺だった。

 

「私は愚かな母親でした。チェルノブイリ事故から数日後、キースから『原発事故で、この先も何万人も人が死ぬんだって。ぼくはもう、生きていけないよ』と言われたとき、私は『キース、生きて!ただ、生きてさえいてくれればいいの、あなたがそばにいてくれたらママは幸せなの』と答えなければいけなかった」

 

息子にかけてあげられなかったその言葉を、今度こそ伝えたいという思いが現在の筑波さんの心の底にある。だからこそ、事故後の福島を、日本を強く憂いでいるのだ。

 

「日本人って、優しいじゃない。こんなこと言ったら相手を傷つけてしまうとかって。そうやって、おもんぱかってジッと耐えて、黙って追い詰められて死んでいく人を見ると、同じように優しくて繊細だったキースを思い出すんです。だからいま、私は『生きて!』と叫ばなければいけないんです。声を出せずにいる人たちの代わりに。私はそのために生かされていると思っています」

 

筑波さんは現在、新しい映画の準備を進めている。次作は筑波さんが書き下ろす自伝を映画化する予定だ。すでに、日本の映画会社や海外の投資家が出資したいと手を挙げている。早ければ来年には公開になるという。

 

「二度と立ち直れないような悲しいことがあっても、私は神の助けによって生き延びてこられました。そういう奇跡の実例を映画にして、皆さんに伝えたいと思っています。皆さんには『どんなに不幸でも、ちゃんと生きてる人がいる』と、そう思ってもらえる映画になるはずです」

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