「パチッ、パチッ、パチッ」。約80面、160人が将棋盤面に真剣に向かい合う。性別も年齢もばらばらだが、子供の数も多い。サッカーのワールドカップで世の中が盛り上がっているなか、ここでは「未来の棋士」を育てるため、静かに戦う子供たちに、熱いまなざしを向けるお母さんたちも多い。
「昨日は大雨が降ったし、今日も雨脚が強いですよね。『今日くらいは行かなくてもいいんじゃないの』と娘に言ったんですけど『どうしても行く』と聞かないから……。電車が止まったりしたらどうしよう(笑)」(40代の付き添いの母親)
ここは東京都渋谷区の将棋会館2階にある「東京・将棋会館道場」。将棋連盟の本部があり、タイトル戦など大きな対局も行われる、将棋の総本山である。道場は予約の必要はなく、土、日曜日、大人なら1千500円、中学生以下の子供なら800円(平日料金、夕方以降料金あり)で「指し放題」だ。
全国の将棋人口は1千200万人もいるという。最近では、俳優の東出昌大が、トップ棋士の森内俊之竜王との対談で「将棋愛」を語っていたし、小籔千豊(こやぶかずとよ)を中心に、吉本芸人のあいだで空前の将棋ブームが起きているという。だが、将棋というと、どうしても男性の世界というイメージが強いが? 女流棋士会会長の矢内理絵子女流五段が語る。
「そんなことはありません。将棋道場もイベントも昔はおじさんと男の子ばかりでしたが、いまは禁煙にするなど、女性でも入りやすいです。実際には将棋を指さなくても特定の棋士が好きになる『観戦ファン』など、この数年、女性ファンが増加しています。将棋の世界を描いた漫画『3月のライオン』や、書籍で60万部を超えた北尾まどか女流二段が考案した『どうぶつしょうぎ』などが、将棋ブームの後押しをしているんだと思います」
たしかに将棋道場を見回すと、思っていたよりも女性の姿が多い。道場の隅のほうで将棋専門誌『将棋世界』を読み込んでいた上田由貴世さん(42)も、息子である琥珀(こはく)君(小3)の付き添いで道場に通っている。
「じつはものすごくおとなしい子供だったんです。コミュニケーション下手だし、友達も少ないほうで心配していたんです。でも、将棋を始めると同年代からお年寄りまで幅広く対局します。対局中は言葉を交わしませんが、長時間、一対一で向き合うことは、ものすごく深いコミュニケーション力と集中力が養われます。対局後の感想戦で仲よく話すことも、自分を見つめ直す訓練になるんですね」
礼に始まり礼に終わる将棋は、サッカーなどスポーツのように勝って喜ぶことはしない。「投了」といって、自分の負けを認め、その後、対局を振り返る「感想戦」もある。これが感情のコントロールの訓練になるというのは、前出・矢内女流だ。
「悔しくても負けを認めなければならないし、その場でダメだったところを、気持ちの整理をしながら、振り返る。『いつか』ではなく、『その場』で反省するんです。それは大人でも大事なこと。私は東京大学大学院で、将棋未経験の学生に講義しているんですが、大学側の狙いは、将棋を指すことより物事の筋道、構成力を養うことと、なにより負ける感情をコントロールすることなんですね」
将棋を指すことは、さまざまな「人間力」の基礎を身に付ける訓練となるし、母親と子供の絆もいっそう強くするようだ。