3月30日、東京・霞ヶ関の厚生労働省記者クラブには各マスコミ数十人がつめかけていた。「マタハラ白書」の記者会見。3月初旬、小酒部さやかさん(38)がアメリカ国務省の「2015世界の勇気ある女性賞」に、日本人として初めて選ばれた。マタハラNetを結成し、その行動を通じてマタハラについて「日本に国民的議論を巻き起こした」と評価されたのが、受賞の理由。さやかさんの“帰国後第一声”は……。
「企業はマタハラの深刻さに向き合ってほしいと思いますし、日本全体でミッションに取り組んでほしいと願っています」
マタハラとは、マタニティ・ハラスメントの略。「働く女性が妊娠・出産などをきっかけに、職場で精神的・肉体的ないやがらせを受けたり、解雇や自主退職の強要をなど不当な扱いをうけること」だ。
「なんでこんなときに妊娠しちゃったんだろう」
’12年9月初旬、妊娠検査薬にあらわれた陽性反応に、感じたのは喜びだけではなかった。
紆余曲折の後、企業の人事部に派遣として配属され、1年後、PR誌の編集業務に抜擢。念願のクリエイティブな仕事。4月には契約社員にもなれた。7月に同棲生活をスタートし、9月には小酒部泰明さん(34)と結婚。「子供は2〜3人ほしいね」と語り合っていた。
しかし、PR誌の納品という忙しい時期の、連日23時過ぎまで残業。翌月からはさらにハードになる予定だったときの妊娠。
「私の仕事が高い評価をもらいだしたころでした。いまから思うと、自分で自分にマタハラしていたんだと思います」
働く自分が、妊婦となった自分を、会社に迷惑をかける存在と感じてしまったのだ。周囲に迷惑をかけられないという気持ちから、下腹の張りを感じつつも妊娠は会社に報告せず、連日いつもどおり深夜まで働いた。しだいに下腹の痛みがこらえ難いものになり、会社近くの産婦人科へ。すると、双子だが、ひとりの胎児からしか心拍が見えないと。
「先生から『働いている場合じゃない』と言われました。急遽、休みをもらいましたが」
稽留流産の手術のため入院。10日ほどして、会社に診断書を提出するため、直属の上司であるA部長に妊娠と流産を告げ、相談をした。
「2度と流産はしたくありません。アシスタントをつけてもらえませんか。情報共有できる人がほしいのです」返事は耳を疑うものだった。「あと2〜3年は妊娠なんて、考えなくていいんじゃないの?仕事が忙しいんだし」。当時35歳だったさやかさんは言葉を失った。
アシスタントの補充はないまま、年が開けた’13年2月。さやかさんは2度めの妊娠を知った。しかし切迫流産という診断。安静にしていれば大丈夫と医師に励まされ、自宅療養をはじめた。さすがに会社は休みをくれたが、情報共有がなかったため、ひっきりなしに仕事の連絡が入った。
1週間後、A部長が自宅を訪ねてきた。契約更新期であり、話があるという。「仕事に復帰する場合じゃないんじゃない?契約社員は時短勤務ができないよ」。退職勧告だった。のちに時短勤務も認められていることを知るが、このときはうのみにしていた。A部長は、酒まで出させ、執拗に4時間も居座った。
せかされるように1週間で仕事に復帰すると、A部長の上司・B本部長から呼びつけられた。「命の重みがわかっていない。自分は妻の妊娠がわかったとき、すぐに仕事を辞めさせた。きみの旦那さんは何を考えているのか」と。こういった“昭和的価値観”の押し付け。それがマタハラであるのはいうまでもない。
さやかさんは、働き続けたいという意志を示すために出勤せざるをえなかった。そして1週間後。「赤ちゃんは心拍が見えず、大きくもなっていませんでした。2度めの流産です」。
手術後、ふたたび仕事に復帰し、その日から残業した。だが2カ月後、PRのメイン担当から外された。そのことでA部長と問答になったとき、彼は言い放った。「おまえが流産するから悪いんだろ」。さやかさんは頭の中が真っ白になった――。
マタニティ・ハラスメントという言葉との出会いは泰明さんがビジネス情報サイトで見つけた記事からだった。《働く女性の流産・死産の背景にはマタニティ・ハラスメントがある》。「まさに私のことだと思いました」。
さやかさんは、この言葉で会社と対峙しようと思った。直後に、2度の流産からくる卵巣機能不全と診断され、最後の手段として、人事部長に相談をした。医師の診断があれば、妊娠安定期まで休むことは可能であり、契約更新も可能だとしたうえで、部長は持論を展開した。端的に言えば次の2点だ。「妊娠と仕事の両方をとるのは欲張りだ。年齢を考えたら、1度退職するべきだ」「仕事に戻るなら、妊娠は9割諦めろ」。さやかさんは、その場で、退職に同意させられた。
そのやりとりを聞いた泰明さんが「やり口が汚い。どうせ辞めるなら、まったくの会社都合退職だって主張しよう」と言った。彼は、A部長が来宅したとき、その話を録音していたのだ。これが有力な証拠品となった。
さやかさんは「日本労働弁護団のホットライン」に連絡し、裁判より迅速に解決する労働審判を申し立てた。審判の調停案では、会社側からの和解金の支払、謝罪文の提出など、さやかさんの要求がほぼ完全に盛り込まれた。
’14年6月、労働審判で解決するまで1年半を要したが、その間、さやかさんは弁護士を通じてマタハラ被害の女性たちと出会う。「ああ、ひとりじゃないんだと思いました」。翌7月、被害に遭った女性たちと「マタハラNet」を立ち上げた。被害者を支援するネットワークである。
現在、マタハラNetはメールで相談を受け付け、スタッフが自分の経験を教えたり、相談者に代わって支援してくれる弁護士に相談、その内容を伝えたり。その活動を通じてマタハラの現状をまとめた「マタハラ白書」も発表した。そんななか、アメリカ大使館から「小酒部さやかさんを『勇気ある女性賞』にノミネートしたい」と連絡があった。
「マタハラに悩んでいる女性には、とにかく声を上げてほしい」と言う。会社に目をつけられるが、いずれその会社の雇用環境は改善され、会社のためになる。そして次世代のためにも――。
「少子化問題の行く末は絶望です。未来のために、どれだけみんなで助け合えるか。そこに目を向けたい。私たちと同じ苦しみを次世代に与えるわけにはいかないんです」