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高度成長期、東京五輪とともに建てられ、56年ぶり、再びの五輪では新国立競技場の建設のために取り壊されることになった都営霞ヶ丘アパート。憩いの場となっている「井上青果店」の店主夫妻と住民たち――。

 

「きょうは柿をもらおうかね。私は、堅いのが好きだよ」

「ちょうど、堅いのが入っていますよ。あとは?」

「じゃあ、おミカンも」

「毎度ありがとうございます」

 

ここまでは、どこの八百屋さんでも交わされる普通の光景。でも、「井上青果店」では、このあとがちょっと違う。おばあさんはつえをつきながらレジの前まで来ると、やおら木の丸いすに腰かけた。財布を取り出し、480円の支払いかと思いきや、店主夫妻との世間話が始まるのである。20分ほどして、おばあちゃんを見送った店主の井上準一さん(70)が教えてくれた。

 

「このいすは、うちのシルバーシート。年寄りは足にくるからね。みなさん、ここに腰かけて、買い物よりおしゃべりのほうが長いかな(笑)。このごろ話題といえば、引っ越しのことばかりですよ」

 

ここは大都会の真ん中、東京都新宿区にある都営霞ヶ丘アパート。井上青果店は、団地の6号棟1階の外苑マーケットで営業している唯一の店舗だ。団地は神宮球場に近く、脇を通る外苑西通りを少し行けば、ハイファッションのブティックやギャラリー、カフェが連なるキラー通り。一流企業の立ち並ぶ青山通りも徒歩圏内にある。

 

霞ヶ丘アパートができたのは、日本が高度経済成長期を駆け上がっていた1964年(昭和39)、あの東京オリンピックの年である。3階建てから5階建てまで10棟のほとんどが2LDKの間取り。ただしエレベーターはない。最盛期には300世帯が暮らし、子供たちの笑い声が絶えなかったが、それから50年……。

 

現在は、空室だらけとなって人口は100人ほど。ほとんどが65歳以上の年金生活者であり、ひとり暮らしの高齢者が大半を占めている。老朽化した各棟の外壁はあちこちが無残にも剥がれ落ち、家庭菜園の庭も荒れ放題だ。井上さんの奥さん、京子さん(70)が苦笑する。

 

「ここだけ、時間の止まった陸の孤島のようでしょ。私たち住人は、“霞ヶ丘村”なんて呼ぶこともあるんですよ」

 

午後4時すぎ、京子さんは、野菜たっぷりの手作り総菜、旬の松茸ごはん(380円)とマーボー豆腐(250円)を入れたビニール袋を提げ、4号棟から8号棟に抜ける細い道を足早に歩いていく。電話注文を受けた3号棟の家へのお届けだ。

 

「これからうかがうのは90代のご夫婦2人暮らしで、いわば老老介護のお宅です」

 

そんな話をしている間も、ガガガーッ、ドドドーッとけたたましい音と地鳴りが続いている。2020年開催の東京オリンピック・パラリンピックに向け、かつての国立競技場の解体工事はすでに終わっている。いまは、隣接する日本青年館などのビル解体の真っ最中なのだ。

 

「あまりの騒音に腹も立ちましたが、もう慣れっこ。それもあと2カ月です」

 

霞ヶ丘アパートは、新国立競技場に続く公演計画のため、解体が決まっているのである。東京五輪に生まれ、東京五輪に消える霞ヶ丘アパート。その歴史とまるまる一緒に過ごしてきた井上青果店も、今年暮れには閉店することになっている。

 

【いい思い出だけを持って、ここを出ていきたいんです】

 

昭和50年代から60年代、子育て世代の暮らす霞ヶ丘アパートに、子供たちの数はおよそ100人。行事も多かった。お正月の餅つき大会、夏休みの盆踊り、秋祭りのお神輿。

 

「でも10年ほど前から、気がつけば高齢者ばかりのアパートになってしまった」

 

そう説明する準一さんが町会長になったのは、’04年(平成16年)のことだった。そして’12年、東京都から五輪開催にともなう立ち退き依頼の知らせが突然届く。住民たちは騒然とし、当初はほとんどが移転反対だった。とくにひとり暮らしの高齢者が不安を訴えた。そんな住民たちの気持ちをどう取りまとめ、都と交渉するか。町会長の責務は大きかった。しかも準一さんは’10年に直腸がんを患い、いまも通院中である。

 

「でも病気をしたおかげで、商売としてはマイナスだけど、腹をくくってみんなの話をきちんと聞こうと思えたんですね」

 

準一さんは、『この店で話しているときは気が紛れるけど、家に帰って、夜になって、部屋で1人壁に向き合うと、いろいろ考えてしまう……』という、ひとり暮らしのおばあさんの言葉が忘れられなかった。

 

「その気持ちも、いやというほどわかるから、話し合うしかないと思ったんです」

 

忍耐強く話し合いの結果は、なるべく住民がバラバラにならない場所に移転し、地域の連帯を少しでも残すということだった。移転先は、おもに新宿区や渋谷区の3つの都営アパート。10月半ばの抽選会を終え、ほぼ全員が希望するアパートに決まった。準一さんが言う。

 

「親父の代から66年間やってきた八百屋を続けたいという思いはあります。でも、自主性を重んじる子育てをした結果、継ぐという息子はいませんでした。寂しさはありますが、これも時代の流れ、人生なんだと思います。だからこそ、いっぱい働いた、いい思い出だけを持って、ここを気持ちよく出ていきたいんです」

 

2020年、団地はなくなっていても、2回の東京五輪の間の60年近い歳月で育まれた絆は、決して消えることはない。

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