image

ずんぐりと大きな体に、つややかな濡れた肌。丸いつぶらな瞳と、いつも笑っているような口元。水族館の海獣たちは、その姿を見せるだけで人に幸福感をもたらしてくれる。日本で海獣の飼育が始まってからおよそ1世紀。生態もわからないころから彼らを研究し、命を守り、愛することに半生を注いだ海獣医師のパイオニアは、強く優しいニッポンのおかあちゃんだった−−。

 

「呼吸確認!」「採血します!」「もうちょっとバックして!」

 

朝10時40分。さんさんと太陽が差し込む鴨川シーワールド(千葉県)のプールに、ゴムの胴長スタイルの飼育係が8人入って、赤ちゃんイルカを取り囲む。自動で床が上昇し、水位が徐々に下がると同時に、赤ちゃんイルカを専用担架にそっと乗せた。

 

生後約5カ月、まだ名前のないカマイルカの女の子にとっては、生まれて初めての体重測定と採血検査だ。そのなかに、おかあちゃん然とした女性が1人、獣医師の勝俣悦子さん(62)だ。彼女は、イルカの尾びれ付近に、長い注射針をブスリッ!と刺した。

 

「採血オーケー、体重は13キロです!」。電光石火の早業だ。真っ青な作業服を身にまとい、化粧っ気のない勝俣さんは、緊張が一気にほぐれたように、にっこりとほほ笑んだ。

 

「イルカは無理に押さえつけられるとショック死することもあるから、慎重になるの。さっきイルカに水をかけられていたでしょ?遊んでるのよ〜。お洋服、大丈夫?」

 

日焼けした顔で記者たちに笑いかけると、大きなお尻を揺らしてタッタカ、タッタカ、従業員専用の建物内に入っていった。

 

鴨川シーワールドは’70年の開業時、日本で初めてシャチを導入。以降、シャチ、イルカ、アシカなどのパフォーマンスショーが人気を博す日本有数の水族館だ。

 

野生動物の保護活動や教育活動にも力を入れ、シャチやセイウチの飼育下出産、日本初の人工受精によるバンドウイルカの出産、ペンギンの人工孵化など、難しいとされてきた海獣や鳥類の繁殖を次々、成功させている。その繁殖実績の立役者が勝俣さんなのだ。海獣とは、イルカやシャチなど、海に生息する哺乳類のこと。

 

「シャチの繁殖には、私の妊娠も役立った。子づくりのときに基礎体温をつけたけど、周期があって、ヒトは排卵後、高温期に入るでしょう。それをシャチでも見つけたの」

 

勝俣さんは採取したばかりのイルカの血液を遠心分離器にかけた。

 

「今はスイッチを入れれば解析してくれるから楽ちんよ。昔は血液をひとつひとつ、手作業で検査してたんだけど」

 

試行錯誤を繰り返し、一から海獣たちの治療手段を確立してきた。キャビネットには、30年以上にわたって診てきた海獣たちのカルテがぎっしりファイリングされている。

 

「記録を全部残しておけば、別の子が病気になったとき、治療の手立てになる。学問じゃなく、経験を通じて体当たりでやっていくしかない。だから、私は《先生》じゃないの。どちらかというと《職人》ね」

 

チーン!電子レンジのような音を立て、遠心分離が終了。血液の成分解析の結果に、「うん。良好!順調に育っていますね!」と勝俣さん。手探りで、海獣たちの命と向き合ってきた。親代わりとなって、海獣の子育てにも取り組んだ。彼女はまさに、海獣たちの“おかあちゃん”だ。

 

「私、繁殖が大好きなの。自分も母親になってからは、同じ女の仲間として『私も産んだよ。あんた、どういう子育てすんの?』って、親近感で見ています。海獣の雌は皆、同じ職場で働くワーキングマザー仲間。同志なんです」

 

10年前、今までの研究を論文「飼育海生哺乳類の繁殖に関する研究」にまとめ、52歳で博士号を取得。今では世界的にも海獣研究の第一人者となった勝俣さん。2年前には定年を迎えたが、今も毎日シーワールドに通い、後進の育成に励みながら、海獣たちの命を守り続けている。