image

’11年3月11日、未曾有の被害をもたらした東日本大震災から5年。当時、日本中から支援の手が差し伸べられた被災地にも、徐々に日常が戻りつつあるかのような報道もなされている。しかし、本当に順調に復興は進んでいるのか。取材を進めていくと、現地の人々の声からは、遅々として進まない構想、そして震災の“風化”という問題が見えてきた−−。

 

「朝ごはんをつくって待っているからね」。そう言われて橋本信子さんの自宅へ伺うと、豪華な朝食が用意されていた。これが震災直後、宮城県石巻市に集まったボランティアをとりこにした料理だ。

 

石巻の門脇地区に住む橋本さんの自宅は震災時、2階建ての1階部分が津波の被害に見舞われた。橋本さんと夫の清矩さんは全身ずぶぬれになったものの命は助かり、避難所へは行かずに自宅の2階で避難生活を始めた。橋本さんは当時を振り返る。

 

「のりちゃん(夫の清矩さん)が、『2階は大丈夫だから、避難所に行かないで家にいよう。とにかく自立しないといけないから』って。それに『焼け石に水だとしても、行政の世話にならずにここにいれば、自分たちの支援分がほかの人に回るから』とも。仙台に住んでいる息子が食べ物とかを定期的に運んできてくれて、それで生活していたね」

 

近所では多くの犠牲者が出て避難所生活を送る人が多く、自宅に残ったのは橋本さん夫婦と向かいの1軒だけ。その後、ヘドロや瓦礫撤去のボランティアが近所まで来るようになる。当時、橋本さん自身も食べるものに不自由はしていたが、ボランティアたちが栄養補助食品や冷たいおにぎりを食べているのを目にし、衝撃を受けた。

 

「『こんなに大変な作業をしているのに、そういうものを食べているなんて』ってね」

 

それから毎日温かいコーヒーや、すぐに食べられるように皮をむいたみかんをボランティアに振る舞うようになった。自宅近くにボランティアが来るようになると、自宅に呼んで毎日ごはんを振る舞うように。ボランティアへの逆炊き出しだ。多いときは1日40人。それが約半年も続いた。

 

「とにかく食材は買ったね。米は10キロ買うと1日か2日でなくなる状態だったから。でも、感謝の気持ちをごはんをつくることで返したかった。石巻のために泥だらけになって大変な仕事をしてくれて、すごい人たちだと思ったから。全部自費だから、家が1軒建つくらい使ったかな。ある日、通帳を見たら残金がまったくなくてね。本当に今、お金は残っていないよ(笑)」

 

もともと料理をするのが好き、ごはんを振る舞うのが好きだったとしても、これだけのことを行うのはたやすいことではない。だからこそ、その人柄とおいしい料理にふれたボランティアたちは、その後、石巻を離れても、二度三度と、橋本さんに会いに来るのだと言う。震災をきっかけに生まれた新しい絆は、今も確かに被災地に息づいている。

 

橋本さんが運転する車に乗り、被害が大きかった南浜地区と門脇地区へ連れて行ってもらった。震災前、一帯には約1,700世帯が住んでいた大きな住宅街だったが、現在は更地となり、かさ上げ工事が行われている場所以外は雑草が生えている。

 

「震災の年に九州からボランティアに来てくれた人がいるんだけど、その人が言っていたのは『ニュースにさっぱり被災地の話題がない』って。あの当時でさえもだよ。でもそうなるのもわからないわけでもないから。よそで起きた出来事はすぐに忘れちゃうよね。ただ、こうやって見てもらってもわかるとおり、かさ上げ工事や堤防をつくるのも、やっと始まったばっかり。復興の青写真はあるけども、ちっとも進んでいない。『私たちが死んだあとに作業は終わるんだな』と笑い話で言うことはあるよ。復興にはまだまだ時間がかかるということは知っていてほしいね」

 

橋本さんはそう話し、こうしめくくった。

 

「ただ、私はしめっぽいのが好きじゃないから。とにかく世界各国、日本全国から来てくれた人たち、支援してくれた人には感謝の気持ちしかない。皆と出会えたことは最高だと思っているよ」