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空前のヒット作となったNHK連続テレビ小説『あさが来た』。その立役者となったのが、ディーン・フジオカが演じた“五代さま”こと五代友厚だ。ドラマで友厚がよく口にした「ファーストペンギン」とは、「恐れを見せず、前を歩む者」という意味。そして、リアル五代友厚こそ、リスクを冒してでも挑戦し続けるファーストペンギンそのものだったという。その気高き魂は、友厚の子孫に受け継がれていた。

 

「五代家に婿養子に入った龍作と、友厚の娘の武子が私の祖父母に当たります」

 

東京都心の住宅街にある自宅で五代家の家系図を広げながら話すのは、五代富文さん(83)。友厚のひ孫である。家系図には「友」「厚」の文字を使った名前が目立ち、一族の中での影響力の大きさが伝わるが−−。

 

「私の名前にはどちらの文字もありません(笑)。富文は祖父の幼名だそうです」

 

文字こそ継いではいないが、富文さんは、友厚から子へ、孫へ、そしてひ孫の自分へと脈々と流れる「五代イズム」をたしかに受け継いでいる。

 

「私の開発者人生も、失敗があるからこそ、その後の成功につながりました」

 

富文さん自身、日本のロケット開発の先駆者なのである。

 

「ロケットを打ち上げるには100万点の部品がすべて働かないといけない。そのためには、自分たちで計算して実験して、そして失敗する。それでなぜダメだったのかを考えて答えを導き出す。その繰り返しが成功につながります。考え方が友厚譲りかどうかはわかりませんが、技術者として、いつも心の中では『最後は自分でやるんだ』という気持ちでいました」

 

’81年、現在のJAXAの前身となる宇宙開発事業団で、純国産であるH2ロケット開発の陣頭指揮に当たった富文さん。ロケット開発は、まさに失敗の連続でもあった。燃焼実験でエンジンを爆発させてしまうと、一瞬にして40億円もの損害となる。失敗を責めるマスコミの矛先は責任者の富文さんに向かった。しかし、けっして拒絶はせず、誠意をもって説明を重ねていった。

 

「マスコミに正確に理解してもらうことが何よりも大切だと思ったのです」

 

また、マスコミや国民の理解を得ると同時に、開発に関わる多くの会社が一体化して目標達成に向かう必要があった。

 

「なかには競合する会社もありました。だから月1回、各社の技術責任者を集めて、ときにはお互いのまずい点を話し合いました。そうやってライバル同士も力を合わせないと、世界に通用するロケットは生まれない。この会は議事録なし、メモ禁止、営業担当抜きで。そして、会を終えれば酒を酌み交わし、一つの鍋をつつきました」

 

ドラマの中で、友厚は目先の小さな利益より将来の大儀のために尽くすべきと、あさに語っていた。〈もし私が死んだかて、五代の作った大阪は残ります。われわれは、いつもそないな仕事をせなあきません〉。こうした五代流ともいうべき人心掌握術によって日本全体が一丸となり、とうとうロケット打ち上げの日を迎える。

 

大企業はもちろん、昨年の大ヒットドラマ『下町ロケット』でも描かれた部分供給を担う町工場も含め、多くの人たちの夢と誇りを乗せて’94年2月4日、国産ロケット1号機の打ち上げに臨んだ。打ち上げの瞬間から周囲で次々と歓声が上がる。が、責任者はまだ喜べない。あらゆる工程を息を詰めて見守り、ようやく胸の内で快哉を叫んだのは、打ち上げから30分もあとのことだった。

 

しかし、5年後の8号機の打ち上げで、開発者人生で最大の失敗を起こす。ロケット本体が積んでいた衛星もろとも海の藻屑となり、一瞬にして約300億円の損失と聞いたときは、さぞ落胆しただろうと思ったが−−。

 

「ただちに海洋科学技術センター(当時)に依頼して、エンジンの一部の回収に奇跡的に成功しました。解析してみると、われわれ技術者の予想とはまったく違う原因が判明。H2ロケットの後継者H2Aロケットは現在までに30回ほど打ち上げられていますが、あのときの失敗があったからこそ今日の成功があるんです」

 

富文さんは、’99年に宇宙開発事業団を勇退するも、国内での日本航空宇宙学会会長や、国際的にも米航空宇宙学会理事などを歴任。日本人初の国際宇宙航行連盟会長を務めた折りには、世界中の若者たちを会議に参加させもした。’02年には勲二等瑞宝章も受けている。’06年には宇宙開発のシンクタンク「宙の会」を設立し、80代を迎えた現在も情報発信を続けている。

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