広島一の歓楽街として知られる流川。雑居ビルの入口に目が止まる。「原爆の語り部 被爆体験者の証言」。階段下に立てかけられたポスターには原爆ドームの写真。きしむ階段を上ると、「証言者の会」が開催されるバー「スワロウテイル」があった。
このバーのマスター・冨恵洋次郎さん(37)は、10年以上、毎月6日に被爆体験をした人の話を聞く、証言者の会を開催してきた。この日の証言者は、広島市に暮らす在日韓国人のイ・ジョングンさん(87)。
「今から話すのは、自分が受けた恐ろしい原子爆弾に遭った体験で、すべて事実です」
続いて父の代に日本にやってきたこと、子供のころの差別や、国民学校を14歳で卒業し、広島鉄道局に就職した経歴などが語られた。そして、’45年8月6日8時15分−−。
「路面電車に乗り、荒神橋を渡ったとき、突然、黄色みがかった光線が走ったんです。とっさに手に持っていた弁当箱を置いて、床に伏せました」
爆心地から約2キロ。即死は免れたが、肌の露出した首のうしろや手にやけどを負った。命からがらたどり着いた職場では、仲間が「やけどには油がいい」と工業油を塗ってくれたが、今度はそこの皮膚が腐り、ウジが湧く。
生々しい証言の連続に、食い入るように耳を傾ける聞き手たち。その様子に、冨恵さんの脳裏には10日ほど前の光景がよみがえっていた。
今年の5月27日、アメリカのオバマ大統領が、現職として初めて被爆地ヒロシマを訪れた。開店準備をしながら店のテレビでスピーチを聞いていた冨恵さんは、その後映し出されたシーンにくぎ付けとなった。
大統領が抱き寄せたのは、森重昭さん(79)。自ら8歳で被爆しながらも、広島で被爆死した12人の米兵捕虜についての情報を、40年にわたり遺族に伝える活動をしてきた。残された者の痛みには敵も味方もないという、森さんの思いに深く共感した冨恵さんは、そのとき決めた。
「次の会には広島で被爆した外国籍の人に来てもらおう」
日本に来て他国の戦争に巻き込まれるのがどんな心境なのかを、まず自分が知りたいと思った。10年以上、バーのカウンターに立ちながら証言者の会を続けてきて、いかに戦争や原爆について知らない人が、知ろうとしない人が多いか痛感している。
しかし、冨恵さん自身、広島で生まれ育った被爆3世でありながら、家庭でもほとんど原爆について語り合うことはなかったという。では冨恵さんが10年以上も「証言者の会」を続けているのはなぜだろうか−−。
20歳で、地元の広島でバーを始めた冨恵さん。広島には原爆に関心のある人が県外からも訪れ、「なぜ広島に落とされたのか」「どの飛行機が落としたのか」など、カウンター越しに質問をぶつけてくることも多い。だが冨恵さんは的確に答えられない。歯がゆい思いをした。そこで、もう一度、学び直そうと広島平和記念資料館や図書館に通い詰めた。
「犠牲者数などのデータは覚えても、やはり数字からは人間味が感じられなかった。イさんの話のように、においや音、目で見たことを直接聞くこと、五感が働くことで当時を実感できると思いました」(冨恵さん・以下同)
当初は既存の会を探したが見つからず、「それなら自分で開こう」と決心。資料館に掛け合い被爆者のリストを受け取ると、片っ端から連絡した。続いて、バーの常連客らに呼びかけると、派手なスーツ姿のホストや風俗で働く女性らも関心を示してくれたという。
「敷居を低くするつもりで、バーで始めたんです」
実は会をスタートさせた、もう1つの大きな理由がある。
「’05年、常連だった女性が自殺したんです。バーには家族や友達にも言えない悩みを抱えている人たちも多かった」
今や年間2万4,000人もの人が自ら命を断つ時代。SOSのサインに気付いてあげられなかったと、深く悔いるなかで思ったという。
「バーテンダーの自分より、原爆を体験し、焼け野原から生き抜いてきた人の言葉のほうが重みがあり、励ましになるんじゃないかと。以降、心配だな、と感じた人に声をかけるようになりました」
こうして’06年2月6日、第1回目がスタートした。
「僕自身、被爆者の話を聞いて、『また頑張ろう』と勇気づけられていたんですよ」
月1のペースなら無理なくできるといった心づもりで始めたというが、気付けばすでに120回を超え、自他共に認めるライフワークとなっている。