「トルコやエジプトから送られてくる刺繍などの台紙のサイズがバラバラで、整理するときに少し困っています」
「たしかにね。でも、彼女たちが、ときには命がけの大変な状況のなかで、苦労して送ってくれているのも、よくわかりますしね」
6月最初の日曜日、東京・上野の貸しオフィスの一角。「イブラ・ワ・ハイト」の主要メンバー8人が集まり、定例会議が行われた。イブラ・ワ・ハイトとは、アラビア語で「針と糸」のこと。紛争の続くシリアの女性たちが伝統技法で手縫いした刺繍を適正価格で買い取り、日本で販売することで自活支援を続けている。
’11年3月の内戦勃発以来、人口およそ1,850万人の半数以上が国外へ避難し、50万人近くが命を落としたとされるシリア。今年4月も、北西部のイドリブ県への空爆でサリンが使用された可能性があるとされ、口から泡を吹いて痙攣する子どもたちの映像は世界中に衝撃を与えた。最近では、「イスラム国」との関連で語られることも多い。
イブラ・ワ・ハイトの始まりは、シリアで紛争が勃発した2年後の’13年5月。考古学者の山崎やよいさん(59)が中心となり、仲間と立ち上げた。
山崎さんは広島大学文学部史学科で考古学を専攻し、さらに大学院在学中の’83年、初めてイラクでの移籍発掘に参加。
「私、どんくさくて、遺跡の測量の水準器を蹴飛ばして、『また、お前か』なんて言われてましたね(笑)。ただ、“いま、掻いている土は私が最初に見ている”と思うとロマンを感じて、どんどんのめり込んでいきました」(山崎さん・以下同)
大学の同級生と学生結婚したのが、イラク行きの直前。’87年には長女の奈々子さん(29)が誕生し、子育てにも奮闘していたときだった。奨学金を得て、中東の発掘調査へ参加できることになった。
「本当はもう一度イラクに行きたかったんです。ただ、イラン・イラク戦争の真っただ中でしたから、仕方なくシリアへ変更に。ほとんど国に関する知識はありませんでした」
こうして、はからずもシリアとの縁が生じるが、唯一の心残りは子どものことだった。
「娘は実家の両親に預けることになりましたが、自分の意志を通していいのかと、強い罪悪感を感じていました。夫婦の仲がぎくしゃくし始めたのも本当です。ただ私にしたらもう現場に戻ることはないと思っての決断でした」
シリアに旅立ったのは、くしくも、長女の2歳の誕生日だったという。その後、山崎さんは、20年間もの間、シリア第二の都市であるアレッポに暮らし、多くの遺跡を発掘するとともに、シリア人の学芸員と再婚し、’90年に連れてきた幼子の子育てもするなど、イスラムの生活を肌身で体験してきた。それだけに、現在のシリアが置かれている状況に加え、この国が日本ではテロと結び付けられて語られることが悔しくてならないと嘆く。
「シリアの人たちほど、柔軟な生き方をし、相手に対して寛容な民族はいません」
この活動が軌道にのるまで、簡単な道のりではなかった。
「シリア人女性の作った刺繍が、わざわざ他国から発送されるのには理由があります。作り手である、のべ40人すべてが、母国シリアから逃れ、他国での避難生活を余儀なくされているからです。最初に作ってくれていた首都ダマスカスの5人は’15年に突然、消息不明に。いまはトルコやエジプトの避難所や、ヨルダンの母子センターの女性たちとスカイプなどで連絡を取り合っています」
そんな過酷な状況のなかでも、山崎さんは当初から、女性たちへの一方的な支援ではなく「協働作業」にこだわった。
「糸などの材料と売り上げを日本から送り、それでシリア人女性たちが刺繍したワッペンや“くるみボタン”などの商品を送ってもらうシステムですが、いずれ国の状況が安定したときには、彼女たちのビジネスとして自立してほしい」
イブラ・ワ・ハイトの刺繍は現在、通販や国内ミュージアムなどでの販売が主だが、素朴でカラフルな味わいが口コミで広がり、入荷待ちの商品も多い。
「日本でこれほどシリア刺繍が求められていることが、いま、苦しい毎日を送る現地の女性たちの頑張りの支えになっています」