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《今ある身近な幸せに気付こう》。斎場の壁に飾られた故人の言葉と、在りし日の笑顔に知人たちは涙を流した−−。

 

7月3日、冨恵洋次郎さんが肺がんのため亡くなった。7月5日・6日に通夜・告別式が営まれ、37歳という早すぎる逝去を悼み、約800人の人々が参加したという。広島市生まれの冨恵さんは被爆3世。地元の高校を卒業後、20歳からバーを経営してきた。被爆体験者による「証言を聞く会」を始めたのは’06年2月。バーの客から原爆について聞かれたとき答えられず、自ら原爆問題について学ぶ場を設けようと考えたことがきっかけだった。

 

会は広島の原爆忌(8月6日)にちなんで、毎月6日に11年間一度も欠かさず開催されている。会場は冨恵さんが経営する「バー スワロウテイル」。生前の冨恵さんは、活動についてこう語っていた。

 

「僕自身、被爆者の話を聞いて、『また頑張ろう』と勇気づけられていたんですよ」

 

昨年5月末、米オバマ前大統領の広島への電撃訪問を契機に、本誌は冨恵さんの半生を取材し、「シリーズ人間『母が語らなかった原爆を僕は知りたい』」(’16年8月16日号)として掲載している。

 

この取材をきっかけに、冨恵さんは「スワロウテイル」での活動を本としてまとめることも決意した。終戦からすでに72年、被爆者たちは高齢化しており、冨恵さんも「一人でも多くの被爆者の思いを書き残して、たくさんの人に伝えることが必要だ」と、以前から考えていたのだ。

 

ところが、昨年秋から作業を進めるいっぽうで、まさかの出来事が起こった。12月、冨恵さんは喉の不調を感じた。最初は風邪かと思ったが、年明けには胸に激痛が……。病院で精密検査を受けた結果、“ステージ4の肺がん”と判明し、医師からは余命2カ月と宣告された。だが彼は最期まで弱音は吐かず、周囲にも気丈に振る舞った。フェイスブックにも前向きな言葉があふれた。

 

《煙草も吸わない自分が37歳でいきなり肺がんになるのが奇跡的な数字。奇跡は奇跡で仕返しします。今は抗がん剤と放射線治療を行っていますが、可能性がある限りなんでもやります》(1月25日)

 

著書の『カウンターの向こうの8月6日 広島 バー スワロウテイル「語り部の会」の4,000日』と題された本は7月中旬には、冨恵さんのもとへ届けられるはずだったのだが……。編集担当者は言う。

 

「6月末に病室を訪ねたとき、発売後に予定していた対談やインタビューの打ち合わせを済ませました。本ができあがるのを楽しみにされていたので、届けられなくて本当に悔しいです……」

 

一日でも長く生きるための治療を模索している最中、容体が急変。みとった友人らによると、決して穏やかな最期ではなかったそうだ。7月6日には冨恵さんが病いを押して参加するつもりだった140回目の「語り部の会」が開催された。告別式後、バーには続々と仲間たちがやってきた。

 

「亡くなる直前、『原稿に反映してほしい』と、冨恵さんから長いメッセージがLINEに届きました。パソコンで文字を打つのも、活字を読むのもしんどいようで、ご友人たちの助けを借りながら送ってくださったそうです」(編集担当者)

 

メッセージには平和への祈りが込められていた。

 

《平和活動というと、堅苦しいし、近寄り難いし、もちろん参加も躊躇してしまう。私はこの本をみて、核兵器廃絶、戦争反対の声を高々にあげ、何か活動して欲しいとはこれっぽっちも思わない。被爆者の方たちが創ったこの日本で、どれだけ平和に生きているか。雨風しのげる寝床でゆっくり休めることがどれだけ幸せか。家族がいるという事がどれだけ安心か。それを少しでも感じられれば良いと思う》(6月9日)

 

「語り部の会」は、これからも冨恵さんの仲間たちが引き継いでいくという。冨恵さんも、平和のバトンの行方を、天国から見守ってくれるだろう−−。

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