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旅行に行く。映画を見る。家族そろってご飯を食べる。20歳で逝った女性が生前に望んだ、ほんのささやかな日常の出来事は、真に「かけがえのない」ものだった。かなえられた願い、かなわなかった希望、そのすべてが自分を支えてくれた母に向けての、喜びであり、かけがえのない命をともに生きてくれたことへの「感謝」の祈りだった--。

 

1冊の赤い表紙のノートがある。イタリアの人気文具メーカー「モレスキン」の手帳を思わせるゴムバンド付きのオシャレなノートだ。開くと、読みやすく、やわらかな文字が箇条書きに並んでいた。このノートに、金澤里菜さんは、やりたいこと、食べたいもの、行きたい場所などを家族といっしょに書いてきた。決して遠い夢ではない。かなったことは、1つずつ二重線で消していく。8ページにわたって、ビッシリ書かれた項目のうち、《21歳のお祝いをみんなでする》の項目はそのままだった。

――4月26日、里菜さんは21歳を迎える前に旅立った。小児白血病だった。

 

「このノートは、里菜と100円ショップに出かけたとき、何に使うというわけでもなく、ゴムバンド付きでオシャレだからと購入したものです」

 

里菜さんの母・麻紀さん(48)は、そう言って、赤いノートに目を落とす。

 

「ノートを作ると決めたとき、里菜はすごく喜んだんです。『自分が死んだ後のことをずっと伝えたかった』と、言っていました」(麻紀さん)

 

ノートの表側からは、家族でやりたいことが書かれているが、裏表紙をめくると、里菜さんが意思疎通できなくなったとき、そして、死んだ後にしてほしいことが、書かれている。「未来ノート」と名付けられた赤いノートは、食卓に置かれ、家族の誰もが自由に書き入れたり、見られるようになっていた。口に出しては言えないこと。それでも家族には伝えたいことを、里菜さんは「未来ノート」につづっていた。

 

未来ノートについて、里菜さんは朝日新聞に投稿している。「ひととき」欄(2月14日付)に掲載された投稿は、こう締めくくられていた。

 

《楽しい話も、悲しい話も、逃げずに家族と真剣に話し合うことが大切だと思います。ノートのおかげで我が家は笑えます。(中略)私の生きる力になっています》

 

里菜さんは女ばかり3人家族の長女だ。’96年5月7日、千葉県船橋市で生まれ、2歳下に妹がいる。母・麻紀さんは、里菜さんが小3のころに離婚。女手一つで、娘2人を育ててきた。

 

「99.9%の確率で小児白血病と思われます」。自宅近くの病院の医師は、麻紀さんだけを診察室に呼び、そう告げた。思いもよらない病名だった。’11年6月9日。里菜さんは15歳。中学3年生だった。その足で、紹介された千葉県こども病院へ向かい、即日入院。こども病院の方針で、里菜さんは、主治医と1対1で白血病の告知を受けている。入院は半年から1年。

 

「告知を受けて、里菜は泣いていました。でもそこからが里菜の切り替えのすごいところ。いっとき泣いた後は、元気なんですよ。入院病棟に入ったころには、『泣いたって騒いだって(病院を)出られるわけじゃない。だったら治そうか』と気持ちを切り替えていました」(麻紀さん)

 

すぐに輸血と抗がん剤治療が始まった。いっぽう、娘の病いをなかなか受け入れられなかったのは、麻紀さんのほうだった。

 

「最初の1カ月くらいは、里菜と同じくらいの年の子が楽しそうに遊んでいる姿を見ると『なんでうちの子だけが……』と思うわけですよ。人間の心の底の黒いものがいっぱい出てきて……」(麻紀さん)

 

麻紀さんは、願掛けとして、毎日、車で1時間以上かかる病院に通うと決めた。里菜さんの前では明るく元気な母を演じたという。どうしても気持ちが切り替わらないときは、車の中で気持ちを整理してから、病院に入った。

 

「私、人前では泣かないんです。元気で強いキャラで通しているから。子どもたちの前でも。とにかく里菜の前ではハッタリをかますと決めたんです」(麻紀さん)

 

「分類不能型白血病」という診断が出たのは、入院して3カ月たったころだ。小児白血病には、急性リンパ性、急性骨髄性、慢性骨髄性の3つの型があるが、里菜さんの場合は精密検査でも型が判明しないきわめてまれなケースだった。

 

「抗がん剤治療とともに骨髄移植もしなければ助からないと言われて……。でも、逆に、移植すれば治る。そんな希望が持てたんです」(麻紀さん)

 

妹から骨髄提供を受け、里菜さんの病状は一気に改善する。中3の2月に退院し、中学の卒業式に間に合った。進学したのは、車で10分ほどの距離にある私立秀明八千代高校だった。里菜さんは、高校生活に邁進していった。高1の10月には1カ月間、イギリス留学にも行っている。麻紀さんとしては「生き急いでいるの?」と思うほど、里菜さんは、青春の日々を全力で過ごしていた。

 

ところが――。高2の6月ころから里菜さんの体調が悪化。白血病の再発だった。2度目の移植手術は、‘14年3月。今度はドナーバンクを利用し、寛解している。里菜さんは高校卒業後は、管理栄養士を目指して、華学園栄養専門学校に入学。しかし、夏が終わり、9月になると嘔吐が止まらなくなり、再び入院。移植後の長期的副作用が疑われたが、11月6日の血液検査で、2度目の再発だとわかった。告知は、母娘一緒に受けた。その後、検査の処置を受ける里菜さんを残して、診察室を出た麻紀さんに主治医は「3度目の移植はできないんです。これ以上は里菜さんの体がもたない」と告げた。

 

未来ノートを始めたのは今年の1月から。里菜さんは、すでにスケジュール帳に自分の死んだ後のことを書き留めていた。そのことを、麻紀さんも知ってはいたが、ずっと気づかないふりをし続けていた。

 

「私は、ずっと、死ぬことは許さないというスタンスできていましたからね。未来ノートを始めた日は、私にすれば、ハッタリをやめ、里菜の覚悟に観念した日、里菜が死ぬことを認めてしまった日でもあるんです」(麻紀さん)

 

金澤家のリビングには、シンプルでオシャレな白木の仏壇が、開放的な木目調のラックに納められている。仏壇は、扉が閉じないオシャレ仏壇がいい、お葬式にきてほしい人たち、その人たちに伝えるための連絡網……。里菜さんは、未来ノートにこと細かに書き残していた。

 

「だから、私たちに戸惑いはありませんでした。里菜のためにと始めた未来ノートでしたが、結局、残された家族のためのものだったんですよね」(麻紀さん)

 

里菜さんの病室の引出しには、《勝手に開けないこと!!》と書かれたプラスチックの書類ケースも入っていた。中には、里菜さんの今年のスケジュール帳と、家族それぞれに宛てた遺書があった。スケジュール帳の最後のページの真ん中には、縦にマスキングテープが貼ってあった。

 

「里菜が亡くなった後、そのマスキングテープを2センチほどはがしてみたら……、もうダメです。これは一人では見られない。だから、告別式の喪主挨拶のときにすべてオープンすることにしたんです」(麻紀さん)

 

告別式には、里菜さんが未来ノートに名前を書いた人たちから連絡が回り、300人以上が参列した。「皆さんに宛てた里菜からのメッセージだと思うので……」。そう断って、麻紀さんは、参列者の前で、静かにマスキングテープをはがしていった。そこには、里菜さんからのこんな言葉があった。

 

《沢山の幸せと愛情をありがとう》