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「オプラはアメリカ国内でカリスマ的な存在です。日本でいえば黒柳徹子さん、上沼恵美子さん、さらにジャーナリストとしての素質もあるため安藤優子さんを足して3で割ったイメージでしょうか」

 

アメリカの現地事情に詳しいデーブ・スペクターさんがこのように評する人物とは、オプラ・ウィンフリー(64)。1月12日、優れた映画やテレビドラマに贈られるゴールデン・グローブ賞の受賞スピーチで、オプラは力強くセクハラや差別問題に言及。国民や有権者から「彼女を次期大統領に!」という声が一気に高まり“時の人”となった。

 

現地メディアCNNが世論調査を実施したところ、現大統領トランプ氏の支持率42%に対し、オプラの支持率は51%と上回る結果に。現在、“純資産30億ドル(およそ3,000億円)”ともいわれるオプラ。彼女はどのような人生を歩んできたのか。

 

オプラが生まれたのは、’54年1月29日。黒人差別の激しかった、ミシシッピ州の貧しい農村に育った。出生時、母親のバーニタ・リー、父親のバーノン・ウィンフリーはともに10代。両親が未婚のまま、オプラは母に引き取られる。

 

母親からの愛情は深くなかったが、祖母からは“読み書き”を厳しく教えられた。小1のときには、すでに小3の学力があったといわれるほどだった。そんなオプラを苦しめたのは、劣悪な家庭環境だった。家には何人もの親戚の男性が出入りし、くりかえし彼女をレイプした。

 

オプラへの性的虐待は繰り返され、14歳のときに妊娠。だが、わずか生後2週間でこの世を去った。トラウマに苦しめられたオプラを救ったのが、バーノンだった。押し付けられるようにして父に預けられたことが、彼女にとって“転機”となる。

 

「バーノンは教育熱心で、夕食前には新しい言葉を5つ覚えさせたり、読書をすすめ、毎週レポートを書かせたりしていたそうです」(在米ジャーナリスト)

 

その教育もあり、オプラは超優秀な学生に。高校時代に参加したスピーチコンテストの演説ぶりが認められ、全額奨学金を受け、テネシー州立大学に入学した。

 

「学生ながらローカルラジオでニュースを読む仕事をしていたオプラですが、大学2年生のとき、夕方のニュース番組に司会者として出演依頼を受けました。“最年少かつ最初のアフリカ系アメリカ人司会者”といわれています」(前出・ジャーナリスト)

 

大学卒業後は、メリーランド州ボルチモアのローカルニュース番組の司会に。

 

アメリカは日本と違って、テレビ局がアナウンサーを新卒で雇ったりはしません。地方局で下積みをして、徐々に人口の多い都市の放送局へのし上がっていく。エモーショナルな語りをする彼女の番組テープは関係者に出回り、’84年、異例の早さでイリノイ州シカゴのトーク番組に抜擢されました」(デーブさん)

 

彼女が引き継いだそのトーク番組は、当時かなりの低視聴率。しかもライバル番組は、全国区の知名度があるタレントが司会を務めていた。

 

「オプラはニュースを伝える際、女性目線の考え方を投げかけ、怒りや喜びの感情をあらわにしました。コアな視聴者層は、昼間に家庭にいる女性。そこでニュースの話題も、それまでセレブのゴシップに重点をおいていたのを、家族や恋人との関係、体重の悩みなど多くの人が抱える問題を多く扱うように。時には自分自身がレイプされたことを告白するうそのない彼女に、多くの視聴者が感情移入したのです」(前出・ジャーナリスト)

 

放送わずか1カ月で、視聴者数はライバル番組に並び、数カ月後には10万人もの差をつけた。’85年には番組名を『オプラ・ウィンフリー・ショー』とし、1時間に拡大。同番組では、それまでタブー視されていた虐待や不倫、薬物依存、人種問題やLGBTに関しても積極的に切り込み、視聴者を増やし続けた。

 

「トーク番組は’11年に終了しました。約25年もの放送期間の間には、トランプ氏も出演しています。マイケル・ジャクソンが出演したときの視聴者数は6,000万人以上。名物の書評コーナーで紹介された本は、必ずベストセラーになるなど、数々の伝説を残しました」(前出・ジャーナリスト)

 

今回の世論調査の結果は、その影響力が衰えていないことの証しでもある。

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