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「すでにさまざまなところで、東京五輪に向けたドラマが始まっています。それを見つめることが、この仕事の醍醐味。時間の許す限り、各地に足を運んで撮影したい」

 

2020年東京五輪公式映画の監督に選ばれた河瀨直美さん(49・※瀨は旧字体)は、10月23日の就任記者会見で、こう抱負を述べた。とことんリアリティを追求する。それが河瀨さんの作風だ。ドキュメンタリー作品だけでなく、劇映画でもその姿勢は徹底している。

 

河瀨さんは、カンヌに愛された監督でもある。’97年、『萌の朱雀』で、カンヌ国際映画祭カメラ・ドール(新人監督賞)を、史上最年少の27歳で受賞。’07年には『殯の森』でグランプリ(審査員特別大賞)、’09年は、映画祭に貢献した監督に贈られる「黄金の馬車賞」、’17年の『光』は、エキュメニカル審査員賞を受賞している。

 

’69年5月30日、奈良市で生まれた河瀨さんは、母親の愛を知らずに育った。

 

「私が母のおなかにいるころ、両親は別居し、生後1歳のときに離婚が成立。私は、母方の祖父の姉夫婦に当たる養父母に預けられ、彼らに育てられました」

 

養父母の愛を一身に受けて育った河瀨さんにとって、実母は「たまに遊びに来る人」「参観日と運動会だけ来る人」だった。とはいえ、高学年にもなれば、自分の家庭環境が特殊だということに気づく。中2で養父が亡くなると、寂しさも手伝って、心が不安定になりがちだった。

 

「当時の中学では、生徒が荒れていて、窓ガラスが割れたりしていました。私も悪い子たちと遊んだり、校則を破ったり(笑)」

 

そんな彼女を心配した先生が勧めてくれたのが、バスケ部だ。長身の彼女は当時で身長164センチ。河瀨さんはバスケに夢中になった。

 

「シュートを入れたときの高揚感。それに、チームでつながることの大切さを教わりました」

 

誰かと、何かとつながることが、生きていくためのよりどころだった。バスケが彼女を救ってくれた。高校時代、県代表として国体に出場した最後の試合でのこと。河瀨さんは突然、湧き上がった思いに翻弄された。

 

「時間が止められない。そう思ったら、えもいわれぬ涙が出てきたんです」

 

河瀨さんは直感の人だ。バスケでの大学の推薦や実業団への誘いもあったが、この一瞬の思いから、全く別の道を模索し始める。

 

「私は現役にこだわった。バスケは、引退後の人生のほうが長い。だったら、生涯現役でいられることを目指したくなりました」

 

当初は建築に興味を持ったが、大学進学は「贅沢なこと」と思った。一刻も早く卒業し、養母を養わねばと、大阪写真専門学校(現ビジュアルアーツ専門学校)に入学。

 

「でも、映画監督の名前すら知らなくてね。『タランティーノって誰?』やったし、小津安二郎もずっと『しょうづ・あんじろう』って読んでたんですよ、私(苦笑)」

 

映画に関する基礎知識は皆無。それが、逆に既成の枠を破る作家性へとつながっていく。授業で8ミリ映写機を扱ったとき、衝撃が走った。

 

「撮ったものが、後で再現できる。これってタイムマシンだ! バスケでは止められなかった時間が映画なら永遠にここにとどめられる。世界を美しい方向に再構築できるんだ!」

 

映画は、河瀨さんの最強の武器になった。専門学校卒業後、一度は制作会社に就職したが、講師として母校に戻り、映画製作を始めている。

 

「『自分にしか撮れないもの』。それが何かをずっと考えていて、出てきた答えが会ったことのない『父親捜し』でした。私は映画を撮るために、父を捜したんです(苦笑)」

 

河瀨さんは、記憶すらない父の足跡をたどる旅に出た。カメラを回し、父に関する証言を取材して歩き、ついには実の父親と再会する。それがドキュメンタリー『につつまれて』(’92年)になった。作品は評価され、周囲の目が一気に変わった。映画監督・河瀨直美の誕生だ。

 

「この作品を完成させたことで、映画を死ぬまで続けようと決心できました」

 

’96年、専門学校を退職し、奈良に事務所「組画」を設立。翌年には、奈良・西吉野の自然をバックに撮った『萌の朱雀』で、カンヌで一躍、時の人となった。

 

最初の結婚は’97年。夫は『萌の朱雀』のプロデューサーを務めた人だったが、しだいに夫との間に心のすれ違いが生じていき、結婚生活は3年足らずで破綻した。

 

’04年、当時のパートナーとのあいだに、光祈(※祈の字体は、示へんに斤)くんが誕生。畳の部屋で、映画スタッフなど、仲間たちに囲まれながらの自宅出産だった。90歳の養母が生まれたての息子の手を握ってほほ笑んでいる姿を見て幸せだった。「出産は『命』を分けるということなのだ」と実感していた。

 

ある夜のこと、オムツ替えや授乳でてんてこ舞いしながら、夜泣きする子どもを抱いて、河瀨さんはオルゴールを鳴らした。すると、大泣きしていた光祈くんが泣きやんで、ニコッと笑った。強い衝撃が河瀨さんを襲った。

 

「生まれて間もない命が、言葉を持つ以前に投げかけてくれたメッセージ。『つながってる』と、思いました。そのとき初めて、私がずっと求めてきた『つながる』がここにあると思えたんです」

 

すやすや眠る光祈くんを見つめて、河瀨さんはそっとつぶやいた。「私のところに来てくれて、本当にありがとう」。光祈くんが2歳になるまで、河瀨さんは育児中心の生活に専念する。

 

「子育てを通して、逆にすごく世の中が見えた。町や公園、自然のなかを子どもと歩いて回ります。そこにはいろんなものが存在し、生きている。生を営んでいるんです。この感覚をこそ表現の世界に昇華できるといいなと」

 

河瀨さんのなかに、生きる力と創作への活力がほとばしった。光祈くん誕生の映像は、その後、『垂乳女』(’06年)で描かれ、フランスではテレビ放送もされた。命と命のつながりを描くドキュメンタリー作品として昇華させたのだ。

 

育休を終え、現場に復帰したころには、90代になった養母の認知症が進み始めていた。河瀨さんは夜明け前に起床。養母と長男をデイサービスと保育園に送り届けてから9~17時のあいだに撮影や執筆にいそしんだ。

 

「可能なときは仕事場にも子どもを連れていき、スタッフにオムツを替えてもらったり、みんなに育ててもらいました。認知症の養母をデイサービスのシーンの出演者にして、現場に連れていくなど工夫をしたりもしました。2歳と92歳を抱えていると、いつ何が起こるかわからない。それでも創作意欲は湧き上がってくる。できる限りの介護サービスと第三者の手を借りながら、創り続けました」

 

認知症患者と看護師の交流を描いて、カンヌでグランプリを取った『殯の森』(’07年)は、その時期の作品だ。仲間を増やし、仲間とつながることで、子育てと介護に追われながらも、チームワークで、撮影に集中できる環境を作っていった。

 

つかず離れずの交流があった実母は、このころから疎遠になり、連絡を取り合うこともなくなった。実父は、再会したときすでに新しい家族がいて、’00年ごろ、他界したことだけ知らされていた。

 

頼れる肉親はどこにもいない状況で、河瀨さんを支えてくれたのは、映画の仲間たちだ。

 

「だから、河瀨組のスタッフも、自分の会社『組画』のメンバーも、私にとっては家族なんです」

 

養母は’12年2月10日、97歳で他界。大往生だった。いまはパートナーと息子の3人で暮らしている。

 

「家族の形は血のつながりだけで語れるものでないことは自身の生い立ちを通して実感しています。いまのパートナーは学生時代からの知り合いで、なんでも言い合えて支え合える。それがかけがえのない“つながり”であり、家族にあるべきものだと思うんです。子どもの学校行事や、節目節目に一緒にいてくれるのもありがたいですね」

 

河瀨さんは常につながりを求めて生き、映像で表現してきた。人と自然、人と人、命と命――。そのつながりこそが、彼女の生きる力の源泉だ。

 

「東京五輪の公式映画の監督という仕事は、私の使命です。スポーツに育てられた人間が、スポーツに帰ってきた。つながっていたんだという幸福な思いが、私にはあります。スポーツを通して人々がつながり合う祭典の記録映画をこの世に残す。これは、映画の神様が私に与えてくれた使命なんです」

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