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「北朝鮮は、“地上の楽園”だといわれていました。学費も医療費も無料。家も家具もすべて用意するから、身ひとつで来たらいい、と。それなのに、楽園どころか地獄でした。いや、地獄より、もっと怖いところです。残してきた子ども6人のうち、4人は亡くなったけど死に顔も見られませんでした。いつ、どこで死んだのか、わからない子もいる。それがいちばん心苦しくて……」

 

斎藤博子さん(78)は、ごつごつと骨張った手をさすりながら、そう言葉を絞り出した。斎藤さんは18年前の’01年8月、北朝鮮から脱北してきた“日本人妻”だ。

 

北朝鮮に渡ったのは、’61年。20歳のときだった。在日朝鮮人の夫・正二さん(享年59)と、その家族が、当時北朝鮮政府が奨励していた北朝鮮への“帰国事業”に応じたため、斎藤さんは1歳だった長女・弥生さん(享年不明)を連れ、海を渡ったのだ。

 

それが斎藤さんの運命を大きく狂わせることになる。

 

「帰国と言っても、夫の家族は韓国の出身でしたから、帰国でもなんでもないの。でも、義父はいちばん行きたがっていました。日本で差別され、いい仕事にも就けなくて苦労したから“地上の楽園”と聞いて心が動いたんでしょう」

 

戦後、在日朝鮮人は60万人以上いて、その多くが韓国出身だった。

 

北朝鮮政府は、朝鮮戦争で失った労働力を穴埋めするため、’59〜’84年にかけて、在日朝鮮人に対し帰還を奨励。「北朝鮮は地上の楽園だ」と喧伝し、帰国を促した。日本政府もこれを歓迎し、国会議員が党派を超えて後押しした。その結果、約9万人の在日朝鮮人が騙されて北朝鮮に渡ったのだ。そのなかには、斎藤さんのような日本人妻や、日本国籍を持つ子どもも約7,000人いたという。

 

しかし、彼女たちが北に渡ってから騙されたと気づいても、後の祭りだったーー。

 

’61年6月12日、新潟港から船に乗るため、斎藤さんは、夫の家族や親戚10人と、汽車で新潟へ。当時、帰還船は月に2〜3回、新潟港から朝鮮半島北東部の清津港に出ていた。斎藤さんたち家族が乗った船には、1,100人以上が乗船していた。清津港が見えてきたころ、斎藤さんの不安は的中する。

 

「日本とまったく景色が違うんです。たくさんの人が出迎えているけれど、みんな顔色も悪いし、服装もみすぼらしくて」

 

1人の男の子が目に入った。

 

「上着は着ているけど、下は裸でした。日本でいくら貧乏していても、下は裸の子なんて見たことなかった。騙された、と思いました」

 

船上は大騒ぎになった。「このまま日本に帰る!」などと叫ぶ者もいたが、その人は北朝鮮当局に拘束され、収容所に送られてしまったという。夫の正二さんも、相当ショックを受けた様子だったが押し黙っていた。

 

斎藤さんら家族は、当局の指示で、中国と北朝鮮の国境に近い恵山という田舎町に住むことになった。

 

「与えられた家は、4階建てのアパートの4階。部屋は2つ。トイレや流し台はあるけど、水道は通ってない。台所にはかめが3つ並んでいて、1つには米が1キロ、もう1つには小麦粉が入っていました。残りのかめは空っぽでした」

 

食料はすべて配給だった。最初の数年は、15日ごとに米やとうもろこしの配給があったが、それも1週間すればなくなる量。湯にとうもろこしを数粒入れたスープを飲んで空腹を紛らわした。

 

「近所の農家に米を借りに行くこともありました。配給されたら、借りた米を農家に返すんですが、そうすると結局また足りなくなるという繰り返し。年中、どうやって子どもに食べさせようか、そればかり考えていました」

 

そんな過酷な生活の中で、斎藤さんに新たな命が宿った。’61年の暮れに生まれた長男・昌日さんだ。その後、斎藤さんは、’65年に次女・光恵、’67年に三女・花恵、’69年に次男・昌道、’72年に四女・コトミと、6人の子宝に恵まれる。家族が増えることは喜びだったが、食いぶちが増えることで、生活は一層苦しくなった。

 

北朝鮮では地域によって貧富の差が大きく、斎藤さんが住む北部はとくに貧しかった。メガネ工場の責任者になっていた夫は、体を壊して休みがちに。代わりに斎藤さんは必死で働いた。しかし、子どもたちはいつもおなかをすかせていたという。

 

わずかに支給されていた配給も、経済制裁の影響で’90年代に入ってもらえなくなった。町は多くの餓死者であふれていたという。

 

「いちばんの被害者は、幼い子や老人です。落ちているモノを拾いながら市場で餓死する子や、駅で、出稼ぎに行った親を待ちながら死んでいる子。駅で冷たくなっている老人。町にあふれた餓死者の遺体を、当局が週に1回トラックで海辺に運んで、穴を掘って埋めるんです。だから、自分の身内が、いつどこで死んだかわからない。それが北朝鮮という国なんです」

 

三女の花恵さんも、’90年代末ごろ、嫁ぎ先で餓死した。四女のコトミさんの話によると、窓際に座ったまま息絶えていたという。夫の正二さんは、’94年4月、結核の治療ができず命を落とした。

 

「病院なんて名ばかりで、薬すらない。だから北朝鮮の家庭では、庭にケシの花を植えて、病人にはモルヒネ代わりに飲ませます。夫にも、それしかできなかった」

 

夫が亡くなる数年前には、6人の子どものうち4人は結婚し、独立していた。しかし、子どもたちの生活も変わらず厳しかった。

 

「北朝鮮でいい仕事に就くには、当局に賄賂を渡さないといけないんです。でも、うちは、賄賂を渡すお金もなかったから、子どもたちをいい仕事に就かせてやれなかった。だから、闇商売していた子もいます」

 

’90年代の終わりごろ、次女・光恵さんが警察に捕まり収容所に送られてしまう。

 

「警察は、刑務所の場所も教えてくれないから、一度も面会に行けなかった。光恵は、ずっと私が来るのを待っていたみたいで、本当にかわいそうなことをしました」
幸い、光恵さんは1年半で出所できたが、今度は、長女・弥生さんが捕まってしまう。

 

「弥生は2000年ごろ、刑務所で亡くなったと聞かされました。遺体すら戻ってきませんでした」

 

三女・花恵さんに続いて、長女・弥生さんも亡くした斎藤さん。子どもを死なせることほどつらいことはなかった。

 

転機が訪れたのは、’01年3月。家にやってきた見知らぬブローカーから、こう誘われたのだ。

 

「中国に行って、日本の親族に電話をかけないか。お金を送ってもらえば生活もラクになる」

 

自由渡航は禁じられている。中国に行くには、北朝鮮と中国の国境に流れる鴨緑江という川を渡らねばならない。万が一、当局に見つかれば、連れ戻されて収容所に入れられる。

 

「何度か断ったけど、子や孫の生活が少しでもラクになるなら、と決断したんです」

 

’01年6月、斎藤さんは警備の目を盗み、案内人に先導されながら鴨緑江を歩いて渡った。到着したのは、中国と朝鮮の国境にある長白という辺境の町。

 

「日本の母へ電話をかけましたが、番号が変わっていて通じませんでした。そしたら案内人が、『戸籍を取り寄せたら日本に戻れる。日本で2〜3年働いて、子どもたちにお金を送ってやればいい』と、勧められたんです」

 

2〜3年日本で働いて、また北朝鮮に戻ろうーー。斎藤さんは、そう決意し、’01年7月31日、外務省の保護のもと日本に帰国。北朝鮮に渡ってから40年。60歳になっていた。

 

「帰ってからは、子や孫にお金を送るために、スーパーで働きました。誰かが休むときは、必ず私が入ってね。ためたお金を20万円持って、年に2回、中国に行くんです。振り込みにすると当局に半分くらい取られてしまうので、中国まで子どもたちがお金を取りに来ていました」

 

子どもたちも、毎回、鴨緑江を渡って命がけでやってきた。

 

「そのころは、脱北者も増えていたから、子どもたちを日本に呼びたいと思うようになっていました。それに、次男の昌道は結核をわずらっていて、中国で会うたびに、やせ細っていて……。’05年に会いに行ったとき、『このまま日本に行こう。日本で治療しよう』と昌道に言ったんです。そうしたら、『僕はきょうだいや子どもたちをみんな日本に送ってから、最後に行くから』と」

 

しかし’11年、昌道さんは43歳で帰らぬ人となった。

 

「あのとき、昌道を連れて帰っていれば、死なずにすんだ。そう思うと、いまでも心残りです」

 

斎藤さんは、来日してから10年以上、子や孫にお金を届け続けた。その間、四女のコトミさんと、次女の光恵さんの子ども2人は日本に呼び寄せることができた。しかし、長男・昌日さんは’12年に肝臓をわずらい他界。孫も数人、北朝鮮に残ったままだ。

 

「次女の光恵も、もう54歳。私が死ぬまでに呼び寄せたい。でも、私も働ける年じゃないから、呼び寄せるお金も作れなくてーー」

 

しかし、斎藤さんはあきらめていなかった。むしろ、より大きな目標を持つようになっていた。

 

「自分の子や孫だけじゃない。私は日本に戻ってはじめて“拉致被害”を知ったんですが、拉致被害者の方々はじめ、北に捕らわれているすべての日本人を助けないといけない。それができない限り、私の仕事は終わりません。まだまだこれからです」

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