9月2日、太宰牧子さん(50)はリスク低減卵管卵巣摘出術(RRSO)を受けたばかりだったが、病室を見舞った記者を、ベッドではなく椅子に座って、出迎えた。とはいえ、さすがに術後の痛みは多少あるのだろう。椅子には浅く腰掛け動作もゆっくりだ。
「手術は順調に終わりました。出血もなかったようですし。ただ、腹腔鏡だったから、おなかのなかにガスを注入しての手術なので、おなかがパンパンで。食欲はあるのに、ご飯が食べられないですね」
太宰さんは、エネルギッシュな人だ。手術からまだ4日だというのに退院すると、9日、東京から京都まで新幹線で移動し、倫理委員会に出席。15日には、筑波大学附属病院で行われた「遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)教育セミナー講演」に登壇した。
太宰さんは遺伝性乳がん卵巣がん症候群(以下・遺伝性がん)当事者だ。がんを抑制する遺伝子に変異があるため、女性の場合は一般の人に比べて乳がんや卵巣がんになりやすい。
11年前、当時、40歳だった姉の徳子さんを卵巣がんで失い、自身も42歳で左胸に乳がんが見つかった。そのとき、遺伝学的検査を受け、遺伝性の乳がんと判明。左乳房の全摘手術を受けている。
遺伝性がんといえば、ハリウッド女優のアンジェリーナ・ジョリーが、’13年に健康な両乳房を、’15年には両卵巣と卵管を予防切除し、連日、メディアで話題となった。
太宰さんの今回の摘出も、乳がんの手術後、定期的に受けてきた婦人科の検査で、卵巣に変化が見られたための予防措置だ。
執刀医の小林佑介医師(慶応義塾大学病院産婦人科)はこう話す。
「太宰さんの場合、右の卵巣の一部が大きくなっているということで、緊急でMRIを撮りましたが、明らかに卵巣がんと指摘できる所見は見当たりませんでした。がんは発症していないという診断です。遺伝子の変異をお持ちの方だけができる、がん予防の手段としての卵管卵巣摘出術をしたわけです。こうした予防的摘出術は、当院でも太宰さんが20例目となります」
日本では、太宰さんのように、がんが未発症でも予防的に、乳房や卵巣の摘出手術を受ける人はまだ少ない。遺伝診療ができる病院の数も、情報さえも少ないのだ。
太宰さんは、翌’14年、HBOC当事者会NPO法人「クラヴィスアルクス」を設立。遺伝性がんの理解や情報交流を深めることで、当事者の抱える心理的、経済的、社会的問題を解決していこうと活動を続けている。
乳がん、卵巣がん以外の遺伝性疾患の当事者団体とも連携し、ゲノム医療の課題解決に取り組むために「一般社団法人ゲノム医療当事者団体連合会」も立ち上げ、代表理事を務めている。
「私、絶対、がんで死にたくないんです。もちろん、がんではないかもしれない卵巣を取るのは、正直、せつないですよ。でも、後悔はありません。今回、手術で取った卵巣は、病理検査に出しています。事前に確認できなかったがんが見つかったら、リスク低減術の重要性を再認識できるでしょう」
リスク低減手術から数週間後、病理検査の結果が出た。
「見つかったんです。両側の卵巣や卵管采に、目に見えないようなサイズのがんです」
MRI検査でも確認できない微細ながんが、リスク低減手術を受けたおかげで発見できたのだ。もちろん手放しでは喜べない。
「目に見えないがんとはいえ、見過ごすわけにいかないところが卵巣がんの怖さ。今後は卵巣がんの手術と標準治療を前向きに進めます」
’68年、東京都大田区で生まれた太宰さんは、1つ上に姉・徳子さん(享年40)、3つ下に妹(47)がいる3姉妹。結婚は’00年。32歳だった。子宝には恵まれなかったが、その分、姉の子どもたちを溺愛した。
「’04年8月、姉が37歳のときでした。卵巣がんとわかって、すぐに手術をしたんです」
普通は親指大程度の卵巣が、約19センチに肥大していたという。
「その時点で、腹膜播種といって数千数万のがんが飛び散り、横隔膜にも転移していたんです」
徳子さんのつらい闘病が始まった。太宰さんは、まだ幼かった甥と姪に毎朝、食事やお弁当を作って、面倒を見ながら、姉に付き添った。
「姉も私も必死でした。’07年の11月には余命2カ月と宣告されましたが、姉は最期まで『生きたい』気持ちが途切れることがなかったです。遺伝学的検査の治験広告を見つけて、最初に興味を持ったのは、姉だったんです。でも、そのときの私は、姉を遮って、やめさせたんですね。正しい情報を集められなかった。いまはそう思います」
家族の願いも届かず、徳子さんは’08年1月19日、永眠した。この経験が、太宰さんを変えた。
「姉が亡くなってから、私もいろいろ調べて、姉妹で同じようながんを発症することがあると知りました。体の異変にナーバスになり、毎日気がおかしくなったように自分で胸の触診をしていたら、しこりに気づいたんです」
6ミリほどのがんができていた。姉の死から3年後のことだった。
「最初の病院では、初期のがんだし、温存手術でも大丈夫と言うのですが、やはり不安で……」
妹と調べて、遺伝学的検査が実施されていることを知った太宰さんは、「がん研有明病院」に転院。そこで遺伝性がんとわかったのだ。
「遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)は遺伝子の病気で、BRCAという遺伝子に変異がある状態です。BRCA遺伝子が機能していれば、がんは起きにくいのですが、変異があるため、がんが発症しやすいわけです」(慶大病院・小林医師)
この遺伝子の変異で発症しやすいのは、乳がん、卵巣がん、腹膜がん、すい臓がん、前立腺がん、皮膚がんの6つ。全てのがんになりやすいわけではない。
このBRCA遺伝子には1と2があり、太宰さんはBRCA1に変異があった。どちらの変異も80歳までに約70%の人が乳がんを、1の人は、44%の人が卵巣がんを引き起こす。
一般的な卵巣がんの発症率は1%。つまり、太宰さんは普通の人より44倍、卵巣がんになりやすいことになる。そんな結果を聞いても、太宰さんは動じなかった。
「遺伝性がんだとわかったときは、不安や恐怖より、原因がハッキリしたことで、逆に納得できました」
すぐさま左胸の全摘手術をし、同時に転移していたリンパ節の切除もした。このとき、遺伝性がんの検査をしないまま、最初の病院で、温存手術で済ませていたら、乳房に繰り返しがんを発症する可能性もあった。
「姉が発症前にこの検査をできていたら、リスクを最小限に抑えられたかもしれません。遺伝性乳がん卵巣がん症候群は常染色体優性遺伝形式(※)。親から子へ遺伝する確率は50%です」
徳子さんが遺伝性だったかは不明だが、妹は検査の結果、陰性だとわかった。太宰さんは、甥や姪にも、自分が遺伝性がんであること、遺伝学的検査のことを話している。
「子どもに、すべて話すのは酷かもしれないとも思いましたが、姉の壮絶ながんとの闘いを目の当たりにした彼らが、遺伝性がんについて、間違った知識を持つことのほうが怖かった。他人の曖昧な発言をうのみにして、恐怖を感じてほしくなかったんです。ただ……、私が乳がんになったと聞いて『死んじゃうの?』って、うっすら涙を浮かべた子どもたちのその顔は、忘れることができません」
乳がんの手術を受けてから、太宰さんは、さまざまな乳がんの患者会に出席するようになった。そこで気づいたのが、遺伝性ということへの差別感情だ。
「同じ乳がんなのに、空気が違うんです。『遺伝性なんてかわいそう』になっちゃうんですよね」
「遺伝性だと、結婚するのは嫌だってことにならない?」「子ども、いるの? 産むの、考えちゃうでしょ」などと、平気で言う人もいた。逆に、遺伝しないがんなのに、「うちはがん家系だから」と、言う人は普通にいた。
「遺伝性ということは、人に言ってはいけない。現状の日本は、そんなレベル。だったら、当事者同士で、気にせず話せる会をつくりたいと思いました」
こうして’14年に誕生したのが、当事者会「クラヴィスアルクス」だ。意味は「虹の世界を開ける鍵」。同年、太宰さんは近畿大学で行われた遺伝カウンセリング学会の市民公開講座で遺伝性がん当事者として登壇した。
「そこで『名前は言わなくていい』と言われて、私は本名ではなく『患者さま』でした。でも、患者さまって言われるのが、すごく嫌で」
太宰さんは、当時の主治医と、こんなやりとりをした。
「なぜ、名前を言えないのですか」
「何が起きるかわからないし、遺伝で差別を受けるかもしれない」
ここで太宰さんに火がついた。
「差別上等です! そんなことを気にしていたら、医療者や私たち当事者が、差別を助長していることになりませんか」
「責任とれないから」と、繰り返す声を背中に、太宰さんはマイクを握った。
「当事者会をつくりました、太宰と申します!」
しかし、その勇気は実を結ばなかった。当時、新聞社の取材では忖度が働いたのか、実名で報道されることはなかった。当事者会も当初、匿名だったため、会員が入ってこない。
「当然ですよ。誰がやっているかわからないような会に、『私も遺伝子変異がある』なんて言うはずがないですよね」
’15年、検査会社から声がかかり、遺伝専門医らが集まる学会のランチョンセミナーでは実名登壇した。その後、『読売新聞』で、実名入りの記事が出た。
「その途端、会の電話が鳴り、会員が増えはじめました」
乳がんは、日本で毎年、約10万人が罹患する。そのうち10〜15%、1万〜1万5,000人が遺伝性といわれている。しかし、現在でも当事者会の会員数は全国で70人だ。
「自分が遺伝性だと知らない人も多いでしょう。遺伝というと、拒否反応が出てしまう日本の社会を変えないと、難しいですね。自分の遺伝的な体質を知り、家族のがんや病歴をまとめ、共有することで健康管理ができます。遺伝をマイナスに捉えずに、知ることでリスク対策ができ、がん死を減らせることを知ってほしい」