ある住宅の窓から早春の風に乗って、勇ましくも軽快な高校野球の公式ソング『栄冠は君に輝く』の女性の歌声が流れてくる。シンセサイザーで伴奏をしているのは、この家の主である古関正裕さん(73)。
正裕さんは、これらの名曲をはじめ、『オリンピック・マーチ』や『君の名は』など生涯におよそ5千曲を作った天才作曲家・古関裕而(ゆうじ)の長男だ。3月30日にスタートしたNHK連続テレビ小説『エール』は、その古関裕而と、妻の金子(きんこ)をモデルにした物語である。
自分の両親が朝ドラの主人公になるというのはどんな心境なのだろうか。正裕さんに尋ねれば、
「(父は)息子の私にしたら、家庭では、奥さんに頭が上がらないという、日本のどこにでもいる普通の親父でした(笑)。2人をドラマ化するというのは、楽しみであり、大変だろうなぁと(笑)」
古関裕而(本名・勇治)は、福島市大町の老舗の呉服店「喜多三」に、1909年(明治42年)8月11日に生まれた。
「少年時代の父・裕而がシャイで無口だったのは、8代目の跡取りとして乳母日傘で育ったことと、吃音のせいでした」
以下、長男・正裕さんの証言を中心に裕而夫妻の生涯をたどる。音楽との最初の出会いは、趣味人の父親・三郎次自慢の蓄音機から流れる謡曲や吹奏楽だった。10歳のころから、音楽好きだった担任との出会いもあり、母親が贈った卓上ピアノで作曲を始める。このころ、喜多三が廃業してしまう。
「父にしたら、家業を継がずに好きな音楽に没頭できると、万万歳だったのでは(笑)作曲は、独学でした。楽器といえば母親の買い与えたおもちゃのピアノとハーモニカくらい。それで、いきなりシンフォニー(交響曲)を作るわけですからね。そこは正直、わが父ながら感服します」
20歳のとき、『竹取物語』を題材にして作った舞踏組曲が、英国のコンクールで第2席に輝く。
『無名の青年の快挙!』
この新聞記事を読んだのが、愛知県豊橋市に住んでいた金子(旧姓・内山)。早速、写真入りの手紙を、裕而の働く銀行宛てに送ったという。
《私はオペラ歌手を目指して声楽を勉強しております。自分で申すのも何ですが、声にはいささか自信があります》
かなり積極的な文面に気押されながらも、返事を出す裕而青年。
《貴女と云ふ方と知り合へた事は正に運命としか思へません》
《ゆうじさん。私のスウィートハート。初恋です。そして私の最後の恋に致します》(金子)
ときには、絵文字ならぬ、ハートのイラスト入りだった。
’30年2月ごろに文通が始まって、5月には裕而が金子に会いに豊橋まで行き、6月には結婚という、わずか3カ月の文通だけの、まさしく“電撃婚”だった。同じ年の秋には、日本コロムビアに専属作曲家として招かれて、2人で上京。東京・阿佐ヶ谷での新婚生活がスタート。
その後、今も歌われ続ける早稲田大学の応援歌『紺碧の空』でその名は世に出たが、いわゆる大衆的なヒットには恵まれなかった。一方、『丘を越えて』などヒットを連発させていたのが、同じく日本コロムビアの専属作曲家だった古賀政男。ライバルの活躍に落ち込む裕而に、ハッパをかけたのが金子だった。
「あなたの音楽は国際コンクールで認められたじゃありませんか。必ず、ヒット曲は出ます」
同じころ、金子自身も帝国音楽学校へ入学。やがて、憧れのソプラノ歌手だったベルトラメリ能子に師事する。こうして、音楽で名を上げるという共通の夢に向かって、夫婦は歩みだした。
その後、かの『オリンピック・マーチ』を生み出し、紫綬褒章を受け取ることになる裕而。“良きアドバイザー”だったと、裕而本人が自伝に書き残している妻・金子との生活は、作曲家人生の“発想の源”だったという。古関裕而と金子が二人三脚で生み出した名曲たちは、これからも耳にした人に、家族に、そして日本中に、力強くて温かなエールを送り続ける。
「女性自身」2020年4月21日号 掲載