3月30日にスタートしたNHK連続テレビ小説『エール』は、生涯におよそ5千曲を作った天才作曲家・古関裕而(ゆうじ)と、妻の金子(きんこ)をモデルにした物語である。
〈♪六甲颪に 颯爽と~〉
『阪神タイガースの歌』(通称『六甲おろし』)を裕而が作ったのが’36年。前年には、歌謡曲でも『船頭可愛や』がヒットして、名実ともに売れっ子作曲家に。2人の娘も生まれ、公私ともに充実した日々を送っていた裕而・金子夫妻だったが、やがて戦争の暗い影に音楽界も徐々に侵されていく。
日中戦争が始まった’37年に発表された『露営の歌』など、いわゆる戦時歌謡を、裕而も次々に発表。やがて終戦を迎え、ホッと安堵したのもつかの間、別の不安が彼を襲う。戦争中に戦意高揚の作品を作ったことで、連合国側(GHQ)から“戦犯”として裁かれるのではないかと恐れたのだった。
裕而の長男・小関正裕さん(73)はこう語る。
「父は多くを話しませんでしたが、戦時歌謡の多くは、軍ではなく新聞社や映画会社に依頼されて作ったそうです。お国のためというより、兵隊さんを応援したいという、やはりエールの気持ちで作曲したのだと思います」
結果的に、芸術家への連合国側の態度はおおむね寛容で、裕而は再び好きな作曲に邁進できる日々を取り戻し、こう誓う。
「これからは、音楽で、戦争で傷ついたみんなを元気づけたい」
終戦後の裕而は、劇作家の菊田一夫との名コンビで、NHKラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌『とんがり帽子』で一世を風靡し、その後も『イヨマンテの夜』などヒット曲を連発していく。売れっ子だったころに見せた裕而の天才ぶりを、正裕さんは振り返る。
「いちばん忙しかったころは、五線紙を縦に書いていくんですよ。メロディに和音をつけるのではなく、最初からオーケストラの全部の楽器の音が、頭の中にあるんですよね」
また、父に関してこんなエピソードも。
「僕が小学生のころは、世間ではスパルタ親父がはやっていたんですが、うちの父は常にやさしかった。でも、ある日、コップに水を張って楽器のようにしてたたいて遊んでいたんです。すると父が2階の仕事部屋からドスドスとものすごい勢いで下りてきて『うるさい!』とひっぱたかれた。あとにも先にも、手を上げられたのはあの一度きり。きっと、ズレた音階が、父には耐えられなかったのでしょう」
無二の感性で、着々と作曲を続けた裕而。そして迎えた’64年。わが国初のオリンピックが開催されることになり、古関家に一大事が巻き起こる。
「金子さん、金子さん。やったよ、オリンピックだ、東京五輪の行進曲の作曲を頼まれた」
帰宅するなり玄関で、珍しく大声を上げた夫に、金子は、
「おめでとうございます!」
と、自分のことのように喜ぶのだった。こうして完成したのが、まさに日本中を音楽で鼓舞した『オリンピック・マーチ』だ。開会式当日、古関家では、父の作った曲が流れるのをテレビで見ていた。
「お父さまの作った曲よ!」
ブラウン管から流れてくる、裕而自ら「集大成」だというマーチを前に、金子の感極まった声が茶の間に響いた。こうした功績が認められ、裕而は’69年に紫綬褒章を授与され、名実ともに国民的作曲家となる。
3カ月間の文通を経て結婚した妻・金子を生涯愛し、日本中に向けてあたたかい応援ソングを作った天才作曲家。そんな裕而らとの家族団らんの様子を思い出し、内孫の松本幸子さん(49)はこう振り返った。
「夕食の後など、自然にリビングに集まって、祖父の裕而がハモンドオルガン、父の正裕がピアノを弾いて、そして金子おばあさま、母の直子、孫の私という女3代が歌うんです。祖父の曲だったり、童謡だったり、ときには『およげたいやきくん』だったり(笑)。音楽は家族を元気にしてくれるものだと、祖父母に教わりました」
残した数多の『エール』は、朝ドラを通して、現代の日本にも届いていく――。
「女性自身」2020年4月21日号 掲載