午前4時半。夜も明けきらぬ仄暗い路地裏に、小気味よい包丁の音が響く。薄く開いたシャッターの隙間からは音とともに、厨房のほのかな明かりと湯気が店外に漏れ出ていた。
ここは、けんちん汁の専門店「大倉屋」。
なかでは、狭い厨房で高齢の男女が、開店の準備に忙しない。にんじんや大根、ごぼうなど、切ったばかりの野菜を大きな鍋で勢いよく炒めていたのは、店主の石橋新平さん(84)だ。
「だしを入れて煮込む前にね、たっぷりのごま油で炒めてやると、おいしくなるんだ」
すると、妻のヒロ子さん(83)が、こう言って胸を張った。
「このけんちんはね、もともと私の実家の、田舎の味なんですよ」
夫婦が、テークアウト・スタイルの、この店を始めたのは平成の時代がスタートしたころ。以来30年余。具だくさんのけんちん汁は多くの人に愛され続けている。
午前5時。新平さんが厨房から手を伸ばし、ラップの芯を使ってグイッとシャッターを押し上げて、いよいよ開店。すると、早速1人目の客がやってきた。
「けんちん、1杯」
70代と思しき男性がぶっきらぼうに注文を告げると、満面の笑みを浮かべたヒロ子さんが、張りのある声で答える。
「はいよ、いつもありがとうございます、270円です」
開店早々の来客に「幸先いいですね」と記者が声をかけると、新平さんは少し、顔を曇らせた。
「でも、もうね、そんなにたくさんは売れないんだ。あんまり出なくなっちゃったんだよ。昔みたいに、町に人がいないからね」
大倉屋があるのは通称「山谷」と呼ばれる地域。東京都台東区北部から荒川区の南端にまたがる、かつての日雇い労働者の町だ。ヒロ子さんが、続ける。
「昔はね、いまよりも、うんと売れたんですよ。店の前に、それは見事に15人も20人も行列ができてね。作る量もずっと多かったから、手にね、マメができるほど包丁使って、野菜を刻んでね……」
昭和30~40年代。当時の山谷には「簡易宿泊所(通称・簡宿)」と呼ばれる安宿が200軒以上あって、およそ1万5千人が、寝泊まりしていた。そんな彼らが、高度経済成長期の日本を、東京の発展を、体を張って支えていた。新平さんは当時をこう述懐する。
「だって、ここの人たちが、東京タワーを建て行ったり、オリンピックの競技場、造り行ったりしてたんだもの。あのころはね、うじゃうじゃ人がいた。お金一銭もなくたって、ここに来さえすれば、日雇いの仕事がいっぱいある、ここに来れば仕事にありつける、山谷はそういう町だったの」
しかし、好景気はやがて終わりを告げ、オートメーション化など、国の産業構造も大きく変化した。それにともない山谷の町も様変わり。日銭を稼げる仕事はどんどん少なくなって、頑健だった労働者はみな、高齢者になった。多くの簡宿は、マンションなどに建て替えられた。
現在、山谷に暮らすかつての労働者たちは4千人足らず。そのうち約9割が、生活保護の受給者とされている。
「今日はとくに(客は)少ないんじゃないかな。もう月末が近いでしょ。福祉のお金(生活保護費)ってね、毎月1日だか2日だか、月初に出るんだって。だから月末近くなるとみんな、お金なくなっちゃうんだよね」
新平さんの言ったとおり、2杯目のけんちん汁が売れたのは、開店から15分以上経過した後のことだった。
「それでも一時はね、いっぱいあった旅館(簡易宿泊所)が『ホテル』に名を変えて。外国人の観光客なんかもたくさん来てた。うちにも外国のお客さん、来たこともあった。でもそれもコロナでいなくなっちゃったね。山谷はすっかり寂しい町になっちゃった……」
別の日の朝。仕込みを続ける新平さんに「いつまで商売を続けるつもりですか」と聞いた。
「もうね、何年か前から商売にはなってないんだ。だって、数えるほどしか売れない日もあるんだから。それに、骨折もして体調、悪かったから、少し前までは、85歳くらいまでかな、なんて言ってたんだけど。先日、誕生日がきて84歳になって。あと1年か、と思ったら、まだできるような気もしてきたし……。わかんないな、こればっかしは」
ここで新平さん、いったん仕込みの手を止めて「いいもの見せようか」と、ヒロ子さんを伴い店の外に。そこにあったのは、新平さんが買い出しに使う自転車。新調したばかりだという。「ちょっとサドルが高いんだ」と言いながら、曲がった腰で器用に乗りこなしてみせると、一呼吸置いてこうつぶやいた。
「今日は月の初めだからね、お客さん、少しは多いと思うよ」
夫の言葉に、妻は「そうだね」と、優しく相槌を打った。夜明け前、西の空の名残りの月が、ふたりの足元を柔らかく照らしていた。
「女性自身」2020年11月24日号 掲載