■植村さんの足跡を追いかけた末、痛みを忘れた
25歳からは、独立した先輩の厚意で美容室を間借りする“シェアサロン”のスタイルで仕事を再開。1年のうち11ヶ月働き、1ヶ月旅に出る、そんな暮らしを続けた。
病に向き合いながら旅を続ける彼女の前に現れたのが、数々の偉業を成し遂げた冒険家の存在だった。植村さんの生き様を知り、熱烈なファンになって、足跡を追った。植村さんがエベレストに初登頂したのと同じ29歳。人生初のトレッキングに挑むため、友人たちの反対を押し切り向かったヒマラヤで、思いもよらないことが起きた。
「当時もいまも、朝は『今日はどんだけ痛いんかな?』って起きるんです。ひどいときは起きられないことも。でも、ヒマラヤ初日の朝、私、普通にパッと起きあがって窓開けて。そう、痛くないんです。病気のこと、忘れてる自分がいた。トレッキングも正直、不安もありましたけど、標高5千500メートルを登り切って。薬を飲まなくても、氷点下でも痛くならないんですよ。思うに、自然治癒力が働いてくれたんじゃないかな。都会にいたら使わない力が、電気も水道もない過酷な山の中に入ったことで機能してくれたんだと、そう思う」
ヒマラヤに通い始めた稲葉さん。行く先々のことを徹底的に調べるのが常という彼女に、新たな出会いが訪れる。
「ネパールのこと調べてたら、河口慧海師というすごい人が明治時代にいたというのを知ったんです」
仏典を求め20世紀初頭、日本人として初めてチベットに入国したのが、大阪・堺出身の僧侶・河口慧海だった。
「当時のチベットは鎖国状態。そこで慧海師はまずインドに渡って情報収集しながら語学を習得。ネパールに移動して登山の稽古。そうやって歳月をかけて、日本人という素性を隠し、西ネパールから越境できる道を模索しチベットへ入った。私、『同じ大阪人や』って勝手に親近感、持っちゃって」
じつは慧海もまた、リウマチが持病だった。
「それを知って『えー!』って声を出すほど驚きました。親近感どころか、運命を感じました。慧海師のルートを辿ってみたい、そう思ったんです」